読書もザッピング----with はやし家@大久保

 体操のメダル期待してみたら、今度はこっちんこちんで線を踏み越すわ、落下するわのおおわらわで、やっぱアンドリアノフとか具志堅はすごかったなぁと、思ったりもしますた。最後の鉄棒の採点、韓国選手に厳しく、アメリカ選手に甘かったような気がしましたが、気のせいでしょうか。北島の泳法にもクレームつけたらしいし、何があってもおかしくないっすね。「Noと言えない日本人」の一人としては、韓国選手の無念はよくわかるような気がしました。でもって、また昼頃起き出す。用事を片づけて、研究室へ。今日成績表を送らないと、社会学史の成績が間に合わない。例年よりふざけたレポートが少なかったので、かなり甘めになった気がする。っつーか、去年厳しくしすぎたのかも。沖和そうな椰子がおそるおそる来て、「センセはシビアだって聞いたんですけど」とかキキヤガったからね。まあふつービビらすよなそういう時って、などと思いながら、投函して昼飯に向かう前のひとときブログ。
 こんな間にも本をザッピング。気が多いというか、なんかひとつの本に集中できないたちなんだなぁ。立ち読みばかりしていたからとも言えるし、勉強部屋のない環境で、時々十分ずつくらいある集中できる時間に集中するというスタイルをとり続けたからかもしれない。そーイヤ、昔の期末試験なんかの前にも、たとえば5時間3科目勉強するのに、友人たちは1時間半ずつやって、あとは30分予備時間みたいにしてたけど、アテクシは20分1科目で3科目60分ワンセットを5回みたいにして勉強した。まったく効果はなかったと思うけど、そうしないと不安だったんだからしょうがないよね。なんたって不安神経症だし。参考書はひとつに絞れなんていうけど、1冊をボロボロになるまでやるという勉強はしなかったなぁ。むしろ問題集をザッピング。数学とかは、「切り口」がみつかったら計算しないという訓練を多用した。ガキの頃は計算ミスとかしまくりだったけど、ボールペンでノート取り出して、ほとんどしなくなった。ただ、ときごたえのある問題を1日1題、解けるまで答えを見ないでやるという勉強もした。英語で言えば、多読と精読。これが勉強の骨格をつくった気がする。
 だから、じっくり本を読み出すとおそい。頭の回転がおそいせいもあるけど、学部時代に哲学で読書の修練を積んだことが大きいと思う。「しゃぶるようにして読め」、「語源までたどって辞書を引け」、「1行にどれだけ多くの時間をかけられるかで才能が決まると言ってもよい」などと、ひたすら「牛」になる訓練をさせられた。反芻に反芻を重ね。思考のタネを頭に仕込んで、散歩に出る。繰り返し繰り返し思索をする。そんなことが奨励された。この読み方は、けっこう読書法のポイントをついていると思う。ノートをとったりすると、ついついとって安心ということもあるし、早く読もうとすると、要するに・・・だろと、性急に言いたいことを要約しようとしすぎる。むしろ頭のなかで転がして、論理展開を反芻する、そして異論を自分なりに理論構成するというような繰り返しで、後者が膨らんでゆくと論文ができる気がする。学生にも、本を読んだらまず本を伏せて反芻し、空で反芻できるくらいになるまでにしろとかアドバイスしている。大学受験なんかもそうだよね。きれいなノートつくるより頭でころがす。講義も聴いた直後に、1分くらいかけて、何を聴いたか、なにが言いたかったのかなどと、頭で反芻するとよいと思うんだな。1日が終わったら、その日のものをもう一度。一週間、一学期と続けると、いい勉強になると思う。思い出したのが、加藤周一氏の『読書術』。ラテン語の勉強するのに、紙片に変化表を書いて、ホームでそれをじっくり見る。でもって、電車のなかで、あもー、あまーす、あまっと・・・などと、ひたすらくりかえす。でもって、目的地でもう一回紙片を見る。こういうことをしたらしい。で、速攻ラテン語をマスターしたというのは、加藤氏ならではだと思うけど、満員電車でも暗唱はできる。無理な姿勢で本を読むくらいなら、この方法はよいと思う。学生にも勧めている。たとえば、二外の活用表。英語のむずかしい単語(単語だと十語くらいかな)。頭のなかでくり返す訓練は役に立つと思う。
 まあそういう熟読系だけですめばいいんだけど、やっぱいろいろみていないと不安で、いろいろな本をとっかえひっかえしてみる。受験の時、キャンプ用のでかいリュックサックに使った参考書全部もっていったアホはアテクシです。みんなが愛用の参考書一冊を大切そうに熟読する中、アテクシは机に参考書を広げて、ザッピングした。だから、しまうのが大変だったわな。同じような受験生を監督していてみつけるとエールを送りたくなる。大学に入ってからも基本はザッピング。熟読一冊を中心に、いろんな本を見ながら読む。書いているときは、さすがに系統だっていることが多いけど、そうじゃないとパーソンズ読みながら、広岡敬一読んだりしてるからね。別に統合失調気取るわけじゃないんだよ。浅田彰だとか、田崎英明だとかが、ソファーに横になって、すてきな辞書を傍らにおき、ゆるゆるとペーパーナイフ使ってフランス書を読んでいるっつーのと、じぇんじぇんちがうんだから、まあこれはしょうがないよね。研究室をもったら、細長い会議机を研究室に入れて、そこにいろんな本をならべ、横に移動しながらザッピングしようとか、円形の机の中心でザッピングしようとか、夢想してたもんなぁ。枕元にも、本が積み上げてある。入院の時もすげえたくさん本をもっていった。っつーか、いまだにトイレで本を読むわけだけど、3冊くらい持ち込むこともあるからね。トイレでもザッピング。
 要するに、書き散らかすのと同様、読み散らかしているということですね。そういう欠点は、書いたものにもでていると思う。あれこれ言及しすぎて、論じちらしてしまう。ひとつの論点を、じっくりと論理的に磨き上げ、それを研究会などでぶっ壊されて、再構成するという訓練を積み重ねてきた研究者とは、明らかに違うものになってしまっている。一言で言えば、論理が細いということなんだけど。読む場合も、山田もりたろうみたいに、緻密な鉄筋建築みたいな論理構成のやつは苦手だ。場合分けとか緻密にしてあるものね。すぐに息が切れて、 (;´Д`)ハァハァしてしまう。それが講義でもそうなっているというのはわかっていて、まあ最近意図的に気をつけている。前は、せっかくコツコツ論を積み上げてきたのに、思いついたギャグ一発で自爆ということもあり、文句が多かったけど、最近はかなり自粛しているから。でも、ギャグ言うときしか、起きてない椰子もけっこういて困ったモンだけど。ザッピングも、精読とバランスよくすれば、目覚めもよくなるし、けっこう想像力がアップするとは思います。しかし、「牛」のほうがいい仕事していると思う今日この頃。
昼食は、大久保はやし家でつけ麺を久々に食べる。麺が太麺から、平麺に近いものになっていた。いいときの航海屋のようでもあるが、むこうは手打ちで黄色くないものの、最近は削り麺のようであることもあり、ヘロヘロ麺などと悪口を言われている。はやし家の新しい麺は、なんかとても口の食感がよい。つるっとしていて、官能的なカンジ。これは、最初に神戸三宮瓢箪で餃子を食べたときの皮の食感に似ている。ひとつのチャレンジなのかな。あと、つゆがバリ濃くなっているカンジ。前は橙色っぽかったのが、茶色っぽくなり、かつ甘みのないもので、それなりにおいちいけど、アテクシはスープは前のほうがいいや。たぶん、喰っているうちにつゆが薄くなるとかゆうやしもいるのかなとも思った。まあしかし、食べ終わってみるとつゆの香りはこんどの方がいいかもとも思った。こんなもん好みだし、なんだかんだ言うほどのことじゃないけどね。蛇足だが、神戸の瓢箪は、震災にも負けずに去年もやっていたけど、なんかいまいちだった。最初に食べたときの食感がすごすぎたのかもしれない。ビールと餃子しかないのはすごいけどね。