石牟礼道子『妣たちの国』によせて

 先日岡山に行ったとき苫田ダムができたと聞いた。十年以上前に、反対運動をやっている方々の話を聴こうということになり、若手の教員と学生とでバスを仕立てて、建設地まで行ったことがある。集落の中の道をゆくと、川の両側にある山の中腹からやや上のところに、しるしがついているのが見えた。そこまで水に沈むというしるしだそうで、水没するくらしを目の当たりにして、暗い気持ちになった。話を聞く場所につくと、代表のI氏ほか、反対運動をされている方々が集まり、手をあわせて、祈る姿を見た。ムシロ旗かかげて、祈る姿は、たとえば先日関電の原発事故で息子をなくした親が土下座する社長に「二度とするなよ」と声をふりしぼる姿と重なった。誤解を恐れずにいえば、南無阿弥陀仏にしても、「た〜すけたまえ」にしても、ほーれんげーきょにしても、真顔で残虐な運動とは異なる、おかしみというか、ユーモアのようなものを感じるのが常である。こうした共感の根っこには、たぶん私なりの水俣体験があるのだと思っている。
 私は二年近く考えて、水俣とは直接に関わらないことを決意した。所属していた環境問題のサークルで運動と関わった人たちもいる。というか、中央官庁の前で座り込んだ側と、座り込まれた側の双方に、サークルのメンバーがいた。その双方が、同窓会のコンパでいっしょになった。座り込まれた側は、座り込む論理、問題解決の論理を求めた。座り込んだ側は、「いや〜」と照れ笑いしている。むなぐら掴んだり、とんでもない言い争いになったけれども、論理化する道を選んだものと、論理化しない道を選んだものの確信犯的な対立がそこにはあり、普通はかみ合わない議論をしようとしている姿には、論理化する道を選んだものの誠意もある。そんなこともあり、私は役人というものを信用している。照れ笑いした方は、九州でくらし、教師になった。人権教育などにとりくみ、くらしのなかで真実を模索している。岡山に就職した障碍を持った教え子の訪問に来た彼と会ったが、ディープ九州弁でニコニコ話す充実に圧倒された。
 なぜそんなことを思い出したのかといえば、今日いつものように有隣堂に行き、新刊文庫本などをチェックしていると、講談社の文芸文庫で石牟礼道子『妣たちの国』が出ているのを見つけたからだ。短歌、詩、随筆などをあつめたセレクションで、年譜や著者あとがきがついている。「巫女文学」(鶴見和子)と言われ、その神がかった文章に、憑かれた人々は多かった。鶴見和子見田宗介、栗原彬、色川大吉などなど、この問題に深くかかわり、学問をそこに建てようとした論者は多い。1971年に『朝日ジャーナル』に掲載されたという、「死民たちの春」がどれほどのものとして読者に読まれたかは、今となってはあまりリアルじゃないと思うけど、水俣病患者たちの、怒りと祈りとで憑依した巫女の呪詛のようなものの、言いようのない迫力はかんじとれるのではないだろうか。

なよなよと動く軟体の顎でいたぶりながら
おまえが呑み込み吐き捨ててきた者たちは
こころざし慎ましくして
低きがゆえにあらねど
遂げえざる希みをいだく
せつせつたる魂である


蛭よ おまえは無選択によく食べ進み
この国の直土の髄深く食い入った
食べ足りて手切れる体節は
ねむる間にも繁殖する
さかさ吊りの髪に風が来ても
おまえは ねむる


夜目にも ぴくり ぴくりと
おまえの背中に宿って
波うつ褐色の その斑点こそは
累々たるしかばねの血漿である


常世の海底の 妖々とひかり
凶兆の虹が
吐血している列島の上にかかるときに
浮いて漂う
死民たちの曼荼羅図絵 (「死民たちの春」より)

 なぜ逡巡したのだろうか。たぶんそれは、こうした詩文や、憑かれていった友人たちに、赦しとか、笑いとかを、私には感じとることができなかったからなのではないかと思っている。それはたぶん、今の私に、たとえば韓国のお笑いがみえないのにも似ている。今読み返してみると、まったく違う世界がそこにはあると思う。それでもなお、たけちゃんの番組でイタコシスターズが、「マリリンよん」とかゆって吹きだしちゃったようなものに、よってたちたいとは思うのだが。その辺を立脚点にして、「神がかった言葉でごまかす」ことと、「論理的な言葉でごまかす」こと、裏返して「神がかった言葉で考える」ことと、「論理的な言葉で考える」ことなどを考えてみたいなどといおうとして気付いたけど、これはいわゆる「憑依と離脱」という問題系なんでしょうか。
 逡巡して何もしなかったのだけれども、社会学科の引率出張におまけとしてくっついてゆくことを決心した。行く先は、桜井哲夫氏のくらすハンセン氏病の施設@草津である。ジュディマリが好きだという「哲ちゃん」にあえるどうかはわからないが・・・。