前期試験講評と反省

 朝起きて、なお咳が止まらず。ごろごろしながら、採点のチェックを行う。出席点なども加味し、最終得点を決める。この出席点を加味というところをじっくり見て欲しい。出席について、「どーせ学生ビビらせるためにとっているだけらしいわよ。出席とかとった紙とかみんな捨てているらしい」などと、得意げに話している℃アホがおったけど、んなぁ〜こたあねえんだYO!!ちゃんとバイトの大学院生雇って、小テスト、っつーか授業の最後に書かせる感想みたいなやつの内容までエクセルで整理してるんだよ。去年非常勤で行っている某短大において、採点がヘンという疑問が出されて、問い合わせが来たときなんかは、そのエクセルの表をファックスで送ったら一発解決だったくらい、ちゃんとした閻魔帳があるの。あくまでも加点項目っつーか、やっぱクソ真面目に出ていて、ミゼラブルな答案なんて場合はかなり考慮するよ。
 ちなみに私は一クラス400人なんて講義をしていたし、代返とか見破るのめっさ得意だよ。その場で指摘して、「キミら不正行為だな。処分覚悟しておけよ」とかゆってビビらしたことあったな。ただ岡大の学生は骨があったから、「おう!覚悟しておくでぇ」なんてゆうやつもいたけどね。もっと面白かったのは、後ろの方でどう考えても出席取ったら逃げそうなのが十人くらいいたのね。で、出席とったときに印をつけておいたわけ。でもって、講義の半ばくらいになると、いなくなってるんだよね。でそこから、印をつけておいた住人くらいの名前を呼び上げたら、一人もいねぇから、もうみんな拍手喝さいだったね。まあそれも90年代にはいってからで、80年代には出席とったら、出席を取ることへの疑問なんて議論をしにきたのもいたし、逆に学生が「出席をとってくれ」と学生が言いに来るようになったときには、教師の間で話題になったモンな。
 最近はさらに、教員の「教える力」を問題にする傾向がある。自宅での自習に期待するのではなく、教室で最大限のパフォーマンスを達成するような授業をしないのは悪である。教室に足を運ばなくなったのは講義が悪いからとまで言っているのがいた。時には穴埋め式などの工夫をして、資料もぬかりなくついているような、いたれりつくせりの教材で勉学してきた世代の人々には、大学人の教育は物足りないというのは、わからないではない。しかし、教えられるべき知というのはそういうモンなんだろうか。そういう弱音を吐きたくなる。それではいけないのだろう。私は、読んだ新書本の数を棒グラフにして、寮の部屋の壁に貼っていたような馬鹿学生だったし、予備校的な知というものに信仰に近いようなものを持っていて、っつーか、高校までは受験参考書くらいしか読んだことがないようなくだらなさだったからだけど、それでもたとえば永原慶二、渡辺金一の二人がマルクスウェーバーを講じた経済史概論などには、禿げしい知的興奮を感じたし、実学志向の学生たちも席とりまでして聴いていた。今も、出来のいい講義のあとは、誰からもなく拍手が起こることもあるそうだ。しかし、「アツイ講義」をしようにも、「息がうるさいですよ」とかゆわれると、トホホだわなぁ。でぶはさ、息がうるさいんだよ。サカゼンとか、ビックアメリカンショップとかさ、両国の服屋とかゆくとさ、ワシとか安田大サーカスとかみたいなのがさ、みんなハアハアしているよ。おまけにワシは鼻の穴が生まれつき細いの。ほんとは手術しなくちゃいけないの。そこんとこよろしこ。
社会学概論。中間試験も、期末試験も持ち込み不可でやったわけだけど、もろ準備と論述力の差がでますね。問題は・・・だ。私はそれを・・・と言うところに絞って書く。観点は・・・・だ。その用語を定義しておくと・・・となる。で・・・・ってことが言いたいんだけど、それを次の★個の論点にわけて書く。こんなふうなひな型は教えたつもりだったんだけどな。あと、答案を最低でも段落に分け、でもって可能なら、論理の流れを明示して、「1.問題設定、2.観点と論旨、3.・・・6.結論」みたいな見出しをつけろとも教えたはず。そのとおりやっていたのは、一割にも満たない。だけど段落なしで、10行ぐらいしか書いていないのもある。一年ゼミや二年ゼミで、書評の書き方とかいろいろ習うと思うから、きちんと身につけて欲しい。もちろん、そんなひな型を無視して、迫力ある論旨を展開している人もいるけどね。
 文化社会学。時間がなくて、ブログに書いた文書をプリントに引用しておいたら、大学職員として2chみたいな文体の文書を教材に載せるのはどうかと思うとあったのには、考えさせられた。まあ少なくとも社会学概論や文化社会学の授業では、2ちゃんッポイことを言うことはなかったし、唐突だったわけだが・・・。こっちは持ち込み可なので、ほとんどの人が裏表びっちり書いていた。かつてなく出来がいい。よんでいて面白いのも多かった。出席率もさほど差がない。その割に授業への不満は多々あった。体系的に、あちこち飛ばず、一つ一つ丁寧に説明することを好む学生さんには、とりわけ不満が多いように思う。話が散漫で、言い散らかして終わり。それはそのまま私の学問の問題性を射抜いていると思った。概論はテキストにそって、プリントをつくり、説明しているので、比較的このような文句は少ないが、文化社会学の場合は、プリント自体が触媒になって、話が展開してゆく。それが原稿になってゆくことも多いわけなんだけどね。気障なことをあえて言えば、成果を教え込む授業ではなく、「創造の現場」を見せているつもりもあるんだけど。わかってもらえないかなぁ。っていうか、話が三流ナだけだという指摘もあったけど。キビシー。
 社会学史。もっと2ちゃんみたいな文体の文章をプリントに増やせとかゆう、面白すぎる要望が書いてあるレポートもあったけど、まあこれはレアケースでしょう。全体のレベルは上がっていると思う。痛いレポートがない。例年、学生時代のワシのようなあほがおるもんだが、一人もいなかった。でも、思わず読み入ってしまうようなレポートも少なかった。講義内容をまんべんなく理解できているかどうかというよりは、深いところで講義の本質をグワシっとわしづかみにして、論を展開できているレポートに期待したんだけど、それは少ない。自由回答的な設問ではこんなものなのかもしれない。わしづかみにするような具体的な設問を決めて、持ち込み不可の試験をやった方が力の差は出るように思った。後期は突然の転出ということでピンチヒッターを引き受けた社会学史が、おとなりの大学である。反省を踏まえて、リピートしてみたいと思う。