C.Wright Mills 的思考とひとつの文化論の視点−−「よりどころのない立場」

 学生諸君が読むには、むずいところがあるにしても、ワハハなことばっかり書いているのも不毛だし、なるべく一日ひとつくらいは進行中の仕事についても、触れてみたいと思う火曜日。試験採点がつらい。好奇心が減退しているのだろうか。読んでも面白くないのが多い。アホというんじゃなく、お役所文書のような、「ひっかかり」のない答案やレポートが多いのだ。別にギャグに舞えというわけじゃない。この人たちは誰に向かって書いているのだろうと思うのだ。アカデミックな文体が悪いんじゃない。抑制して書いても、伝わってくるものはあるはずだ。
 まだ日程的に余裕があるけれども、やはり少しでも早く終えて、有効に夏休み期間を使いたい。まとまった仕事をできるのは夏休みだけ。だけど考えてみると、昔から夏休みに本とか書いたことはあまりない。*1わがままなまでの、情熱が研究を支えているのだと思う。要領よく時間をやりくりして、小手先でまとめても、自家中毒のような苦しみが続くだけだ。センスだとか、感性だとか、要領だとか、そういったもので仕事ができる人は限られている。
 現在、〆切のない仕事をいくつか抱えている。書かないと戦力外通告なしの賞味期限切れになってしまう。論文集みたいなものを書くのなら、さほどむずかしくないけれども、それなりの作品性を見極めて、ガツンと来るようなものを書かなければならない。そういう焦燥がないと言えばウソになる。あるいはここで身を潜めて、重厚な研究書を何年がかりかで書くか。今が岐路なのだと思う。とりあえず後者の仕事をコツコツと進めるのが、与えられた役割だと思っている。ただ、結局ミルズの研究を集大成するには、テキサス大学のベイカー歴史研究センター所収ミルズペーパーズを見に行かなくてはならない。毎年夏休み、春休み、そこに通ってコツコツとと資料を集めて、それをまとめる。大学院生の頃、ミルズの遺族から閲覧権だとか複写の権利は取得済みだった。しかし、心身の健康が優れず、物怖じしているうちに、現在に至っている。若い人たちには、人生は長くない、やれるうちに、勢いのあるうちにやっておかなければ、一生できないよとアドバイスしているが、自分はからっきしだ。秋元律郎氏は、定年時期になってなおマンハイムの一次資料と格闘されていたようだ。岡山で御一緒だったこともある高城和義氏も、パーソンズの一次資料と格闘されている。こうした卓越した持続力も、すこぶる特別なものなのだと思う。
 少し肩の力を抜いて、ミルズについて書いてみたいと思っている。前にミルズについて書いた本は、ミルズ理論のアメリカ的本質というのをモチーフに、ミルズのコンテクストに沿いながら、論証していったという本で、ミルズの面白さを開示したとは言い難いものになってしまった。口の悪い寺沢正晴氏は「ミルズをつまらなくした」と、バッサリ一言でかたづけた。あたっているだけに、きつい一言だったと思う。ミルズの面白さというものについて、それでいろいろと考えて、なんかやっぱりちまちま論じてもダメなんじゃないかと思い始めた。そのころ、上野千鶴子『セクシーギャルの大研究』をたまたま手にとって、そしたら、アメリカに留学してゴフマンの面白さに触れたけど、これってそのまま紹介してもショーもないと思ったから、この本を書きマスタ、みたいなことが書いてあって、これだね!!とか思って、「ミルズする」という試みを意図的に続けてきたつもりである。小谷敏氏に、こうした実践の意図を指摘していただいたときは、めっさうれしかったなぁ・・・。まあそんなわけで、原稿をいくつか書いているうちに、そこそこいくつかに「ミルズ的思考法」みたいなものが見えてきた気がするので、これを学生さんたちにもわかるように書くというのが、ミニマムの目標である。
 その作品性というのが、一番大事なわけだけど、「あいだの思考」(北田暁大)、「素と演技」(田所承己、吉野ヒロ子)、「ボケとつっこみ」(太田省一)などなど、このブログでも書いた新しい文化論の方法を、ケネス・バークとミルズのほうに引き寄せて、それにジンメルの「橋と扉」を絡ませれば、核心となる方向性は出ると思うんだけど、問題はそれをミルズ論として書くのか、文化論として書くのか、あるいは二つ書くのかという問題で、そのへんのことを文化論よりではっきりさせたくて、このブログを書き続けていることもあるわけだけど、どうもわけわかめなところがあって、執筆に入れない。もう一つは、「両義的なものの不安定であやうい均衡」について、ぼんやりながめる立場をとるのか、それとも弁証法をもちだして決着つけるかみたいな問題もある。勤務校の紀要『経済と社会』に今春書いた論文では、ミルズの「よりどころのない立場」というのは、一貫したtelosの放棄なのではないかと筆が滑ったんだけど、結局この辺を決めかねて、ハーバーマス的な愚直をあえて引き受けて、フィールドの成果を積み上げるか、あるいはルーマンなどの理論で歌舞いて逝く道逝くかうじうじうじうじしてきたわけです。まあとりあえず、自分は機能主義の立場に立ち、「動員」という論理を戦略的に採用してみて、異化できるものがあるはずだとか、機能主義のひとつの到達点としてロムバッハに学びたいだとか、その辺も紀要論文で筆が滑りまくったわけだけど、実際は言いたいことは、そっちの方向性と言うよりは、「保守的なもの」とか、「根を持つこと」とか、「ヴァナキュラー」とかゆった方にあって、ミルズの本質もそっちにあって、だからこそニスベットみたいな人がミルズを評価していたということも見逃せないわけで。
 まあ、そんなことをとりあえず考えつつ、カジュアルに「ミルズ的思考」について論じることは可能だと思うけど、昔広松渉がマクレランのマルクス伝についてゆっていたことを思い出すと、出るとこ出ると怖いということは痛感する。つまり、マクレランはやさしく書いているけど、読むとものすごくよく調べているのがわかるというわけなんですね。ある本で良知力の追悼文を広松が書いているわけだけど、良知はコルニュの水準をクリアし、マクレランに迫るとか書いているわけです。コルニュといえば、アルチュセールが、バッタモン初期マルクス論をなで切りにした『マルクスのために』で、唯一例外的にアカデミックな初期マルクス論として評価しているものであり、ウルトラ実証的というかスゴイものであることは、同じく初期マルクス論の学問的厳密性を探求していた藤森俊輔氏からもうかがったことがあり、その水準をクリアしてもなおわかりやすいマクレランの本には、「迫る」もんでしかないということは、すげー勉強量なわけだし、正直ビビりますわ。しかしまあ、書いてからですね。問題は。さて、そろそろまた採点しねーとな。

*1:最初の本がでたのが3月下旬、次が7月中旬、その次が10月下旬だったと思う。前二冊は、秋から春にかけてのかなり忙しい時期に作業している。三つ目は、たぶん実質的な作業は春から初夏だった。編集者と校正者が、非常に丁寧な原稿の点検をしてくれて、メイルをやりとりしていたのが、夏休みだったと思う。