ぼくたちのウッドストック−−『性というつくりごと』の思い出

 岡山市役所の女性大学(今は参画カレッジとかゆうんだと思うけど)や岡山大学総合科目女性論と男性論、その出版企画『性というつくりごと』などでお世話になった、元市役所の寺田和子さん、青木須賀子さんが時間をつくってくれることになり、もう一泊することにした。岡山市の行政については、いろいろな偶然が重なり仕事をさせていただくことになった。今もそうだが、当時は今にもまして、世間知らずであり、チベットの民族衣装にサングラス、まあ要するにだな、かっこうだけはゴアゴアなテクノっちょいかんじであったわけだけど、言うまでもなくおよそ行政には似つかわしくないとんでもないかっこうで、何十という岡山女性団体お歴々*1がつどう女性大学に出かけていった。その格好の珍妙さは、筆舌に尽くしがたい。実を言うと、本人はボヘミアンを気取って結構悦に入っておったのだが、それを着て帰省したときなどは、両親が「こんなシドイ格好になっちゃって、育て方を間違った」とかゆって、馬路泣きしたというくらいのものである。社会学者というだけで、そういう仕事を分担しなければならなかったということは、不思議でならない。故柳原佳子氏を中心に女性大学を運営することになり、同氏の推挙により私が加わることになったようだ。同氏とは大阪大学の研究会でご一緒したことがあるが、あまり話したことはなかった。にもかかわらず声をかけていただいたことで、いい勉強をさせていただいた。いずれにしても知遇を得、学会の作法や、行政とかかわる場合の最低限の礼儀作法などを懇切丁寧に教えてくださった。またの仕事を通し、出席者の修了論文の相談に乗ったことで、転勤してから卒論指導にまったく当惑することなく仕事ができた。同時に、参画行政などについて、十分な学識を持たない者が加わったことで、いろいろな方にご迷惑をかけ、あるいは十分満足いただけなかったことは申し訳なく思っている。
 岡山の女性運動は市民レベルでは非常に充実していたはずだし、大学にもそういう専門の先生は多数いた。だから、私と鮎京正訓氏(現名古屋大学)とで、総合科目もやってみようということになったときも、さほど深刻に考えていなかった。まったく面識もない人たちに飛び込みセールスみたいにして紹介なしでいきなり声をかけていった。当時はメールなんかないから、手紙を各部局に送りつけた。*2岡山大学教育学部の家庭科、養護・特殊教育、文学部の歴史、経済学部の労働経済、そしてもちろん教養部である。新任間もない、一面識もない若手教員のぶしつけな手紙に、各教室の先生方は意外なくらい親切に対応してくださった。その先生方がたが、またいろいろな先生を紹介してくださり、講義の輪はひろがった。
 岡山大学の総合講義では、本当にいろいろな方に講義いただいた。精神医学者の古元順子氏、青木省三氏。家庭科教育の櫛田真澄氏。女性史の倉知克直氏、沢山美果子氏、曽根ひろみ氏、妻鹿敦子氏。評論家の伏見憲明氏。岡山の教育委員長をされている内科学者で養護教育教室の高橋香代氏(高橋氏は天満屋ラソンチームをスポーツ医学的にサポートされているとも聞く)。今は同僚となっている米文学の本合陽氏。公法学の建石真公子氏。神戸大学国際協力研究科長片山裕氏。岡山大学法学部長の谷聖美氏。イタリア文学の伊田久美子氏。明治学院大学稲葉振一郎氏。親業の平川洋児氏。農業経済学の藤本玲子氏。文化研究の中尾知代氏。後に政治家になられた石田美栄氏。などなど、私が在職中だけに限っても、それぞれの分野で活躍している忙しい人々が、ボランティアで講義してくださった。遠くから駆けつけてくださった方もいる。人々の善意で充実した講義ができ、そしてみんなで本を出すことができたことは、岡山大学の学生にとり、大きな勇気になったのではないかと考えている。義理堅い学生たちは販売にも協力してくれた。『性というつくりごと』は、岡山紀伊国屋で瞬間最大風速ではあるものの、ベストテンに入ったりしたのである。学生たちは書店に行き、いんちき平積みをしたとも聞いている。つまり、平積みがひとつあったら、まわりのところにも何箇所か一冊ずつ平積みにしたらしいのである。
 寺田氏と、青木氏は、岡山市から講義に参加してくださった。当時は行政実務家が講義をするということは、所属長の特別の許可が要る時代だった。そうしなくても、講演のようなかたちで、特別講義をしていただくことも可能ではあったのだが、正式に講義いただかなければ意味がないと考え、当時の松本一岡山市長に大胆にもアポなしダイレクトメールを書いた。私たちのグループには市の組合などと懇意な人も多く、市長とのおりあいは必ずしもよかったわけではないと思うが、松本氏は黙って許可をしてくださった。本当にありがたかった。私はずいぶん投げやりでいいかげんに生きてきた人間だし、今も大差ないかもしれないが、いろいろな善意に触れて、少しずつ人間を信じてみようかなどと、そのときは殊勝に思った。それを学生たちに話したら、たちまち馬鹿にされて袋叩きにあったのだが・・・。青木氏は、当時女性児童行政の部局にいた方で、寺田氏は保健や看護方面の資格をもつエキスパートだった。行政の現場で見聞きしたいろいろな事例を学生に語ると、学生たちは静まりかえった。感想文なども、「届いている」ものが多かったように思う。
 この総合講義をまとめた『性というつくりごと』には、いろいろな人が執筆している。世話人としてそういう大物執筆者を統括したということになっている鮎京氏と私について、とんでもねぇ辣腕の政治屋だとか思っている人もいるのだと、亡くなった桐田克利氏から聞いて、思わず笑ってしまった。ぜんぜん統括したわけではなく、この指とまれで、みんなが勝手に集まってやっちゃったのである。そして、受講生登録は200人ちょいだったけれども、出席者は400人以上いたことも、われわれにはうれしかった。多くは教養をおえた専門の学生で、それだけ多くの専門の学生が、なにかと馬鹿にする人も多かった教養部の講義に関心を持ってくれたからだ。別に女性学に興味がある人間ばかりが受講したわけではない。また、啓蒙して、イニシエーションするのだけはやめようや、などと申し合わせたこともあり、「うちのおかんは専業主婦ぢゃ。それがわるいんか?」などと、手をあげて発言するような椰子もいて、学生も教師も、お互いに矛盾や争点を持ち帰るというタイプの講義だったと思う。それはまるで、「ぼくたちのウッドストック」のようであったと私は考えている。

*1:講義をしたほうがいいような人まで聴講されにきていた。それだけ機会均等法を軌道に乗せる熱気というようなものが伝わってくる気がした。

*2:今ではそんなこととてもできない。やっぱ紹介なども重要だけど、肝心なのは熱意と思っている。