ブログ一月−−『社会科学雑記』の思い出

 ブログにだらだらながたらしく書きやがってこのくたばりぞこないのぢぢいがと、口の悪い元教え子のアフォがほざいております。アテクシとしても、それはなんとなくわかるんですよ。*1これでも。ただまあ、主としてこれは受講者の方々に向けて、講義舞台裏というカンジで、プリントの草稿みたいなものやネタ帳をみせているということで、ご海容を。昔つけていた、『社会科学雑記』というノートを思い出して、なかなか新鮮な気分になって、少々調子にのっていることもあります。
 もっとも読み手を意識しすぎて、ギャグりすぎて、学問的な色彩がだいぶ薄いんだけどね。大学一年の時に、清水幾太郎の本を読んで、『社会学雑記』というノートをつけていたという体験談を読み、これだ!!と思い、速攻はじめたのが『社会科学雑記』というノートである。講義を聴いたり、本を読んだり、レポートを書いたりするたびに考えたことを書きつけた。そのノートには、毎年の修了論文みたいなものを勝手に書いたりしていた。そういうものは、なんらかの時点で捨てるのが、精神の自立っちゅーもんだろうけど、アテクシはご丁寧にもクロス製本してとってある。さすがに今はあけてみることはない。でも、たぶん退職まで生きられて、老後があったら、そういうのをひろげて、昔を懐かしむのかなぁと思う。
 書きながら読むというのが、じぶんにあっていたのだろう、ノートは、大学一年から大学院修士課程まで続いた。飽きっぽいアテクシとしては異例の長さだ。特に苦労せずに勉強ができたというタイプとはほど遠いから、いろんなノウハウ本をよんだ。梅棹忠夫の『知的生産の技術』、川喜多二郎の『発想法』、さらには多湖輝の『ホイホイ勉強術』から、和田秀樹の『受験は要領』まで。もちろん、『超整理法』野口のちょーシリーズはすべて買って読んだ。でも『社会科学雑記』以外に長続きしたのは一つもない。『超整理法』の押し出し式ファイルというのは、簡単で便利だけど、やっぱいらないのが上に来ちゃうのが人情?だし、さらにはならべるんじゃなく、積んじゃったりするわけで、なんともにんともなのである。それじゃあ、押し出し式ではなく、押しつぶし式だ。
 今日は文化社会学の試験だった。試験と言っても、自分の研究と講義の接点を見つけて、講義の内容を要約した上で、自由に論を展開するという類の問題を出した。おおざっぱに前期の内容をながめた上で、メッセージを自分なりに要約できるかというのがミニマムの要件で、あとは自由に論じでよいことにした。最近カウンターがあがっていると昨日書いたが、はたしてブログをみて書いたような答案もある。やってよかったなぁと思った。学生の課題として、ノート整理を課した。ノートを清書するのではなく、調べ込んだことや、考えたこと、あるいは書評などを書いて、卒論につながるようなものにして欲しいと思う。
 ブログをはじめて、一ヶ月ちょっと。29日から、集中講義に一週間ほど出る。モバイルをもってゆくかどうかは、迷っている。もってゆかないと、携帯で書くか、ネットカフェで書くかのどちらかで、ややくるしいことになるかもしれない。それよりなにより、行く先でワールドダウンタウンをリアルタイムでやっているかが、最大の不安だ。深夜番組は、やっていなことも多いし、やっていても遅れていることも多いのだ。地方都市は地方都市で面白い番組も多いのだが。

*1:「と」様もtyadon さんにも、ニュアンスはだいぶ違いますが、似たようなことゆわれたし。