新宿を彷徨する−−リアリズムにおける方法的厳密と社会性

朝までかかって本を読み切ったために、起床は昼頃になってしまった。起きてメールチェックし、取り急ぎ上記の文章を書き、それから思いたって大久保のはやし家へ。ここのつけ麺を食べるのも久しぶりである。ピリッとしたつけ汁が美味しい。どう考えてもギョーカイ系とおぼしきおっちゃんが三人でつけ麺を食べていた。若いモンは、「いただきやす!」とか元気よく挨拶しつけ麺にかぶりついた。途中兄貴分に電話があり、けっこうやばい話を堂々とやっていたので、麺を噴き出そうになった。笑いをこらえて顔を伏せたら、となりに座っているかたぎのあんちゃんの腹筋もヒクヒク揺れていた。目をあわせば、きっとバーストアウト禿げ藁なので、目を伏せて黙々と食べて、店を出る。いつも通り歌舞伎町デンジャラス地帯を横切って2丁目のサカゼンへ。いわゆるデブセン服屋である。集中講義を前にポロシャツを新調するためである。この店は15Lまである。客をみるとアテクシなどまだまだ甘いと痛感する。だって縦横倍くらいの椰子がいるんだぜ。
 そのあと、tyadon さんがコメントで言及されてた郡司ペギオー幸夫著『原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生』 を買うために紀伊国屋本店へ。学部時代、財布に三千円くらいしか入っていない状態で、日参していた時代があった。凶暴な殺意にも似た世間知らずの探求心があった。あしたのジョー風に言えば、「飢えた狼」だわな。ここに来れば洋書があるということを、先輩に教わったからだ。通ぶって、こんな本も置いてねぇとか、愚痴っていい気になっていた。結局学部時代は、金もなく、テキスト以外に意味ある洋書を買った記憶はない。それでも、新宿に出てくると、なんかハレな気分で、今はなくなっちゃったけど、歌舞伎町のたこぽんで明石焼きを食べたり、桂花でターロー麺を喰ったりしたわけだけど、一番よく行ったのが紀伊国屋地下のスパゲッティ屋で、茹でおきを炒めるような店だったけど、なんか都会な気分だった
 さすがに大学院のころになると、国立のロージナやガラス玉遊戯でカレー喰ったり、お茶したりするほうが百倍いいというふうに思うようになり、あまり新宿には行かなくなった。和書は生協で個人注文で買えるようになった。洋書も買えたようだが、銀杏書房で注文する院生のほうが多かったんじゃないか。注文の際の立ち話に「おばば」が、いろんなことを教えてくれたからだ。紀伊国屋の品揃えが悪いとか、知ったかぶりをすると、「んなもん、あるわけねないのよ。普通注文して買うんだから。なかには注文が一定数に達してから印刷するようなところもあるんだよ」なんてことを、「おばば」は教えてくれた。まだ、円がさほど強くなかった時代で、ガーフィンケルの『エスノメソドロジー研究』が18000円くらいしたんじゃなかったっけ?必死で金を貯めて買った。大林宣之の『青春デンデケデケデケ』で、オケラの学生が必死でギターを買ったのと一緒である。*1
 とまあ、そんなぢぢくさい感慨にひたりながら、紀伊国屋にはいる。ここにはあるわけねえぇよなぁと思いつつ、下の階にあるし、やっぱ本業は社会学だし、まず社会学の棚にいかなくっちゃと思い、そうする。案の定ねぇ。「子犬本」がまだ平積みになっていてぶっ飛ぶ。正直品揃えには、さほど萌えるものを感じなかった。ジュンク堂などと比べるとぜんぜんダメなんじゃないの、これって?・・・などと思いつつ、上の階の生物学の棚に。やっぱねぇ。でもって、人文の階に。けっこうこまかく見たけどねぇ。慣れない本屋は禿げしく見にくい。もしかしたらあったのかもしれないし、見方によっては萌えたのかもしれないが、疲れたので直帰した。紀伊国屋でも南店なんかはまだ慣れている。池袋に行けばジュンク堂がある。八重洲に行けばブックセンターがある。でもなんか疲れた。アマゾンで買えばいいやと思っちゃう。

 自然言語だと、そういう「言葉の置き換え」にまつわる危うさがあるので、別種の道具=言語にすがりたくなったりしてますだからと言って、はい、じゃあ数理社会学、とはならないのですが。だってあれも([しかも]二重の)置き換えだと思うし、です。そこで郡司さんなどの議論が私にとっては魅力的なのです。

というtyadonさんの指摘は、実は、非常に刺激的でした。人工言語への操作性の厳密がよしというだけなら、そこへの写像というか、変換はどうなんだという話になる。社会調査で言えば、手続きの厳密性、代表性があっても、「記入」という行為はどうなるんだという話なのかな。陳腐すぎる例でスンマソンとしか言えませんけど。そういう知識社会学的な実在論というか、リアリズムの問題は、社会学的想像力論議でも重要な論点で、tyadonさんが「子犬本」でパーソンズの解説を「分析的リアリズム」に焦点をおいたこととあいまって、わかんなくても読んでみてぇ・・・と思ったわけです。学会報告や紀要論文に書いたのですが、私自身は、こうしたリアリズムの問題と絡んでは、ロムバッハ『実体・体系・構造』における機能主義有論に注目し続けています。前任校で、訳者の酒井潔氏の演習に出ていた学生から、訳出中の話などを随分きかされ、有論(おんとろぎー)をめぐる青臭い議論を重ねるなかで、私なりに機能主義理解をかためていったこともあります。前任校の学生は、「ルーマン=体系<ロムバッハ=構造」という超絶あてずっぽな議論をし、私は輪をかけたあてずっぽの暴論をほざいていただけで、議論の水準はいまだに変わりません。ただ言えるのは、方法の厳密ではなく、リアリズムに胚胎されている「社会性」だということです。方法の理解が生半可でも、そこまでもってきたモン勝ちとまでは言わないけど。いや、断じて言いません。w 私の関心はミードやミルズの社会学思想史的理解ですから。*2なんちって。やっぱ似合わないから、馬鹿話炸裂に邁進します。講義の感想文まとめ読みしたら、「雑談に期待」のほうが圧倒的に多いでやんの。とほほ。 

*1:ゴフマンの『フレーム分析』はペーパーで買ったはずだが、これもめっさ高かったように思う。

*2:言ったかもしれませんが、私はM論もD論もそれが主題でした。宇賀博氏の仕事の継承を目標にした作品です。若者論は友人や学生と遊んだ記録を本にしちゃっただけかもしれません。