立ち読み

 史上最高気温ということを知らず、元町のプールに泳ぎに行った。猛暑に気づかないほど心身ともに充実している。横浜にいる時は、スポーツクラブに行けないので、昼食後の休憩時間に泳ぎに行く。往復四キロ以上あるが、歩きながら、紙片を見たりして、思考をする。私なりの「哲学の道」と言えるかもしれない。途中には、ドヤで有名な寿町、元町商店街、横浜中華街などがある。かわった中華茶店、喫茶店などもいろいろあって、寄り道しながらノートをとったり、校正をしたりする時間は、めっさゴキゲンである。帰りに有隣堂本店によって、立ち読みをするのは日課。昔は、各階時間をかけて、何時間も立ち読みしたけど、最近はすぐ疲れて座りたくなる。
 立ち読みは、速読の訓練にいいと思う。目次を見て、カバーを見て、あとがきなんかを見て、あとはペラペラ。目に引っかかったところをじっくり読む。毎日行っていれば、平積みされる本や、社会学の専門書の主なものは、ほぼカバーできる。その場でメモはとらず、とるなら帰ってとる。忘れたらまた行けばいい。欲しいなと思っても、金はなかったし、自由には買えなかった。でも、欲しいなという気持ちの高まりは、じらされているようで萌えまくりになり、強烈なモチベーションとなる。
 昔とある読書法の本で読んだ話を思い出した(たぶん外山しげひこ氏の本だったと思うけど)。本はつんどけッテ話。つんどいて「顔」=本の背表紙を毎日見て、さぞかし面白いことが書いてあるんだろうなぁとウットリ考えるといいらしい。でも、めんどうだから読まない。毎日毎日顔を見て、でもって何年かしたら、ふとその本をひらいてみる。すると、自分の思考の方が、その数段先を行ってたりするらしい。ンな馬鹿なと思ったし、同じ経験はあったとは言いがたいけど、似たような経験はある。つまり、学生時代萌え萌えだった本を何年かぶりにみてみると、文体は色あせ、論は以外に粗雑かもなんて思うことがないとは言えない。もっとも、てめえの本はけっこういけているなんて思うこともあり、愚劣の極みなんだけどね。立ち読みの場合「顔」を見る意味はたいしてないけど、いろんな本を見ている意味は少なくない。そういえば、ある先生は、洋書と和書のカタログ整理を大学院生にさせ、注文をすることを研究室運営の一貫としてやっていた。好きな本も注文させていたようで、こき使っていたわけではない。
 今日有隣堂で見たのは、まず話題の『反社会学講座』。今ごろ見た。たしかにこれは、学生に読ませるとイイと思った。夏休みの課題図書に指定することを決意。奥井智之氏の『社会学』。抑制のきいた論理的な内容で、これの学生にすすめようと思うけど、難しいというかなぁなどと思った。そのとなりにあったのが、高橋準『ファンタジージェンダー』。あー、本出したんだとしばし感激。これは、速攻買いマスタ。後輩で、『社会学のよろこび』って本の仕事で、一度お会いしただけだけど、坂井真紀がでたTBCのCFなんかをつかった論述はすごくセンスが(・∀・)イイ!!かんじで、いずれ出てくるだろうと思っていた著者は、ジェンダー論のサイトである「ミリエル」で知られている人であることは言うまでもないでしょう。単にセンスよさげっていうだけではなく、「ファンタジー」という作品性が野太く通っていて、脱帽しますた。で、あとがきをさがしたけどない。がっかり。だって、あとがきにうだうだ書いてあるのは私はすごく好きなんですよね。意地悪な気持ちもちょっとあって、なんか落ち着くこともあるし。
 あーあ、と思って親にウナギを喰わせて、東京に戻ってきたら、高橋氏から本が届いてました。私のような者に本をくれるような人は、たぶん不器用な生き方をしている人なんだと思う。だめだよー資源は有効活用しないと、ワシは買う人だし・・・などと思いつつも、もらってうれしくないわけもない。昔はすぐに読破して、必ず封書で感想を書いて送った。何人かの先生に同じようにしてもらってうれしかったから。でも、最近は遅れ気味になる。忘れて年賀状や暑中見舞いで気づくことも。情けないかぎり。今はメールもあるのに・・・。高橋さんがかっこよすぎるのは、「あとがき」を私信の「献呈の辞」としたこと。かっこよすぎじゃんかYOと思いつつ、楽しく「あとがき」を拝読しました。こういうダンディズムもありなんだろうねぇ。だけど、この「あとがき」読みたかった読者もいると思う。ネットサイトにうぷするか、メール配信したらいいんじゃないかなぁ・・・。
 ワールドダウンタウン見忘れないように、ずっとフジをつけっぱなし。そしたら、久しぶりにジャンピングドアを見た。まだ、「ひろたんとしおり」をやっている。「にゃにゃにゃにゃーい」はついに流行語にまでなっているわけで、すげえもんだわいな。