たかが武、されどたけし

 朝生で民族派の激昂おやぢがなかなかキャラで、怒鳴れよごるぁああと見ていたら全部みちまったのと、あと、将棋の行方ー中川戦が、持将棋千日手と二度さしなおしというすごいことになり、こっちも気になって、すごい週末になりました。将棋は諦めて寝たんだけど、終わったのは朝の九時。まさに格闘技でございますなぁ。
 疲れていたこともあるんだろうけど、いつもは5時間くらい寝て起きてしまうのが、今日は久々に7時間も寝て、昼前に起きる。洗濯をしながら、『私は世界で嫌われる』、『武がたけしをころすわけ』をめくる。かならずしも、漫才が映画を喰っているってわけでもないよ、っつーことが、さりげなく強調されていて、振り子が愛と暴力、映画とお笑いどっちにも振ってみたい、お釈迦様の手のひらの上で、暴れるだけぐるぐる回りたい、たけしの手のひらの上で北野武がまわっていたり、その逆があってもいいなんてゆっているのは、ガツンときますた。
 長谷正人氏は、『映像という神秘と快楽』のなかで、「ソナチネ」という暴力のリアリティを一応の成功と評価しつつ、愛やあたたかさという試行はかならずしも成功しておらず、しかし北野武は誠実に努力を続けているので見つめてゆきたいみたいなことを言っていて、なるほどーなどと思っていました。それが、先日のTBS系列の「情熱大陸」で、西原理恵子が出ていて、「泣くことと笑うことと同じことジャン」と一言でかたづけていたのには、ぶっとんじまって、たわいのないことだけど、まあこりゃあコロンブスの卵ちっくなどと、納得してしまうのは、情けないかぎりかなぁ。まあかといって、『ぼくんち』のらすとの炸裂感がいまいちだったという、感想を変えたいとも思わないんだけど。もっとも、たとえば長谷さんイチオシの『ジンメルコレクション』にしても、編集している『文化社会学への招待』にしても、両義性うらおもて系の視点を提示しているわけだし、既知既知なんでしょうけどね。しかし、サイバラが吉祥寺に住んでいるとはおもわんかった。ワシもいせやにいってみようかなぁ。
 で、たけしについてゆえば、『ころすわけ』のほうで「あの夏・・・」について語っていたのが面白くて、この映画は「たけしの映画は大嫌い」とゆっていた淀川長治日曜洋画劇場のさよならさよならのときに「これで好きになった」と解説した映画なわけだけど、この映画は「氏ぬことは平等」「あっさり氏んじまう」みたいなモチーフを<映像化>したってことで、あとわざとらしいせりふ廻し全部とっちゃって、寡黙な本で映像を魅せるみたいなこと、そしてBGMもサザンなんていうのは悪い冗談で、サティみたいなのを使おうとしていたなんてことは、新井満もほよぉ〜となる「引き算ゲイジツ」(『そこはかとなく』)なんすかってことで、水滸伝も真っ青な不条理な氏とかゆったことなども想起され、興味はつきないモノがあります。
 仮に、「あの夏・・・」がそうだとすれば、「ソナチネ」だって、なさけないやくざの話なわけだし、なら菊次郎路線ジャンかと思っていたら、『ころすわけ』のほうでたけしは「ソナチネ」で氏ぬしかないやくざが紙相撲をするシーンなんかにも言及していて、この作品が「こっち側から描いただけ」みたいなことがわかったような気がしました。なら「あっち側から描いてもいいはず」なわけだし、それはお笑いや下町人情テレビドラマとしては成功しているわけだけど、あるいは金髪、赤い仕込みにタップダンスの饗宴としては、娯楽的に拍手喝采なんだろうけど、作品性云々みたいな話になると、どーも??で、これはおととい書いた福田コーソンの風俗小説批判と同じ話で、ゲージツの作品性ってものは、そうゆうもんで、そんなことを意志的にやる椰子らより、黙って生きて、蕭然と氏んでゆく庶民のほうがずっとえらいみたいなことを、福田も思っていたみたいだけど、でもゲージツってもんは、宿命的に方法や作品が必要ってことなんでしょうね。「喜劇は面白いんだけどねぇ・・・」とたけしがゆっていたのは、印象的ですた。アジアで作品性を追求することは、欧米人に優等生ヅラするのと同じだとすれば、あほくさいわなぁ。っていうような水準の話でもないんだろうけど、そういう面ではお笑いや、マンガなんかの方がやりやすいんだろうけど、それらは老境にかかるとセンスが摩滅する。となると・・・氏ぬっきゃないみたいな話だろうか。ただたけしも、芸は一生のもんだとゆっていて、いとしこいしの漫才や、志ん生の落語なんかの例を出している。一方でそれを極めつつ、映画撮れるなんて、苦しいなんて言わせたくないくらい、羨ましい話。 
 しかし、『嫌われる』のほうで、「はなび」の絵は「便所の落書き」というシリーズの使い廻しみたいにゆっていたのは、お笑い芸人にのみ関心のある私には、萌え萌えですた。「くたばれ地方自治」という文章は、抱腹絶倒ですた。金ばらまきで、脳内麻薬炸裂させた連中が、中央に陳情に来る。で、「早くコイ九州新幹線音頭」なんかをつくって歌う。「ボクと彼女は新幹線に乗って ハネムーン旅行に心が騒ぐ」。「知事さんも市長さんも新幹線に乗って 国会陳情に出かける予定」。情けねぇなぁ。どうしようもねぇなぁ。わははははは。と笑う。このスタンスは、まごうことなき下町のモノだと思うけど、<市民>としてこれを批判するのはオレには無理だなぁとも思う。ただ、たけしが市民を全否定しているわけでもないのは、今回発見して面白かったことです。やっぱべつの物差しがあるんだろうねぇ。