金曜は社会学史

 金曜は社会学史(近代)という講義をする日です。1985年に岡山大学に赴任したときは、パンキョーの講義を、ルプレーからはじめ、コント、マルクスウェーバー、デュルケムとやることに、何のはばかりもなかったし、実際多くの学生のレポートは、プロ倫だとか、経哲だとか、カピタールだとか、グルントリッセだとか、フォルメンだとか、略称されることがジョーシキな世界に、親しみ、古典を読破シマスタとアッピールするようなレポートがたくさん出されたように思います。最近は、不毛な理論を嫌う人が増えたことと、もう一つは以前なら絶対アテクシの講義のような毒素なものには出席してこなかった思想ヲタも教室にいたりして、前者はカッとんだ雑談や具体化した応用の話を好み、後者はもっと思想を!もっと難しくと、渇望し、やりにきぃ〜ことこの上なしであります。まあただ、『社会学的思考とは何か』をテキストにしているわけですが、Ⅰ部とⅡ部、つまり社会学成立以前と成立期までの思想的流れに対する関心よりは、完成期の社会理論を話すことの要望が強く、ボルケナウ的な文脈や、フランス合理論論+イギリス経験論=カントみたいな文脈を下敷きにして話せることは、大幅にカットせざるを得ないことになり、「カントにおけるアンチノミー問題」という論述を書き、院試を通過したボクは残念だなぁ・・・なんちったりして、わら。まあただ、ルネサンス宗教改革から、30年戦争、そしてウェストファリア条約といった文脈を詳しく話したことなど、今年はけっこう収穫がありました。味気ないくらいにコンパクトに、時代背景を話し、人となりを話し、理論を話し・・・みたいにすすめるのが、今日の若者にはあっているのだろうか・・・、ッテイウカ、それ以前に講師の力量が問題かもなど、なやみはつきません。本日は、ウェーバーの行為類型論と支配類型論を物象化論で串刺しにし、プロ倫とあわせて、ウェーバーの全体系を「合理化」のペシミスティックな解明として強引に話しましたが、さすがに感想文には具体的、かつ本質を突いた批判が多く、ワクワクします。しかし、なんか、最近疲れ気味です。寝る時間が遅く、起きるのが早い。アドレナリンデマクリで、仕事は進むけど・・・。−−しかし、こんなことしか日記が書けないのかな。別に見栄はっているわけじゃないけど。今日一番つらかったのは、起きるのが遅くて、金曜定例週一回の贅沢、東急イン朝食バイキングが食えなかったこと。今日のこれからの楽しみ。夜に、どこかのラーメンを食いに行くこと。・・・