木曜はつらいよ−−諧謔・私小説・風俗小説と方法の問題

 ビデオで『集団殺人サークル Growing』なんつーものをみて、そのあとネットなんかやっちゃって、あほくさーと思いつつ感想をカキコをし、おまけに文芸文庫で出ていた『尾崎放哉随筆集』などを読み、若い頃の文体が、2ちゃんを彷彿とさせるような毒素文体で、しかも、蓮見しげひこバリのまったく「。」のない、「、」だけで続けてゆく文体で、人間なんて愚にもつかねぇなどとうそぶいているところは若書きだぜ放哉ちんなどと結いたくなるカンジはあるにしても、期待したくらいの面白さはあり、夢中で読破、気づいたら四時近く。あ〜、木曜は一限からだと思っても、もう遅い。熱いシャワーブチかぶって出勤し、一限社会学概論、二限二年ゼミ、三限四年ゼミ、四限オフィスアワーとこなす。オフィースアワーでは、学生が就職の相談に。一応こういうのは参考になるので、時間をたっぷりかけて聞く。ひたすら聞く。その後卒論の話をし、資料をやる。さすがに疲れ果て、ソファーにダウン。仮眠をとる。
 教科書にあった放哉の「咳をしてもひとり」に萌えて、これって(・∀・)イイ!!と思いつつも、板書された「諧謔」ってことばを忘れないように覚えることであたま一杯で、鑑賞もへったくれもなかった人は私以外にもきっと多いだろうと思いますけど、そんなんでも習っておくと、あとで楽しめることもあるんだなぁと、つくづく。放哉は、流浪のあげく小豆島で氏んだと習ったはずが、年譜をみると四十近くまでエリートリーマンで、その後人事でもめて辞めて、それから放浪したわけで、森トンなんかともちとちがくて、けっこう今でもありそうな話であることをはじめて尻マスタ。あと、窓を開けたらガキが笑ってたみたいな俳句は、ガキにも笑われたトホホみたいなことだと思いこんでいたら、坊主になっておつむつるつるに剃って、寒いぜごるぁああみたいな句と連作になっているのを尻、ま、それはそれでいーかな、などと思いますた。なんてことを、疲れたのでごろごろしながら考えたあと、同じく文芸文庫の新刊である『福田恆存文芸論集』をぺらぺらとめくる。いわゆる風俗小説批判、私小説批判とくれば、見逃すわけにはまいりません。要は、どんなえげつない風俗を描いても、自分の醜ささらしても、それだけでは文学やないでぇってこってすかね。どんなに上手く描写してもそれだけでは肖像画にはならない、自画像描くならゴッホをみろよなぁ〜ごるぁああみたいな例はわかりやすかったし、これは大塚英志が『サブカルチャー文学論』で書いていた江藤淳論=江藤淳村上龍批判と田中康夫礼賛への疑問と通じる部分があるような気がして面白かった。マニアックなサブカルチャーを描出して悦に入る、素材dependentなものなんて文学じゃねぇってこってすね。村上は若者の風俗を描いているだけ。康夫ちんは「なんとなく、クリスタル」と「、」を入れているところで、方法の問題をクリアしているというのが江藤。それはほめ杉、江藤ちんちょっとやっぱあがっちゃってない?っていうのが大塚ですかね。大塚は返す刀で「根ざす方法」について言及しているのは、よい切れ味だと思うわけですけど。福田は、それは否定するのかなぁ。描きようによっては私小説もあり、とは言っているわけだけど。習俗だとかそういったものは、文化やゲージツたり得ない。ある必要もない。いや、ないほうがいいくらいにゆってるのかなぁ。まあしかし、ジンメルの女性文化論なんかには、また別の視点が出されている気もする。いずれにしてもこの辺は、文化社会学という議論からしても重要だと思われます。風俗小説、私小説などの意匠で小説の方法が模索されていたことと、ビートルズなんかのコピーしてグループサウンズやおーたき、ゆーやがいろいろやっていたことと、いろんなものがだぶって見えてきます。まあしかし、勉強してから言わないと、誰も聞いてくれないから、しょーがないっすけどねぇ・・。
 明日は非常勤で社会学史(近代)をやる日。プリントはとっくにできていて、これから泳ぎに行くわけだけど、先にメシ食うか、泳いでから喰うか、悩ましいところ。今日もまた懸案の研究文献は読みすすめませんでした。ミルズで何か書こうと思うのに・・・。