木村義徳『ボクは陽気な負け犬』

 朝起きて、ごろごろしながらテレビをザッピングしていたら、NHKの将棋の時間で福崎文吾が振り飛車穴熊を指していて、相手が若手の有望株である山崎隆之ってことで、おお!!とわくわくしながら、対局を見守ることに。途中からで棋譜はわからないけど、福崎陣の穴熊は、歩がとれたもので、ひねり飛車みたいなのからの発展系なんでしょうか?わかんないけど、陣形は左右にわかれちゃっているし、角を手に持って相手を歩切れにさせるみたいな様子。昔は妖刀と言われた福崎も、最近は解説で妙なギャグ連発したりして、ヘンな人気を誇るようになっちゃっていて、十段のタイトルを獲った頃を知るものとしては、非常に残念でたまらない。穴熊一本で、ぐいぐいとのし上がっていった。「相手が端歩をついて打診をしてきたときに、香車をあがって穴熊を表明する」と、当時の本(『将棋世界』の付録)に書いている。充実した気迫がうかがえる。疑いもなく名人候補であったが、最近はいささか息切れしている感がある。
 木村義徳の『ボクは陽気な負け犬』に、福崎文吾が描かれている。木村は、木村一四世名人の子どもであり、早稲田大学大学院修了。東洋史を学んだ碩学棋士である。将棋は万年六段というカンジだったのが、ある日突然確率変動モードとなり、父親の予言通りA級八段に。一期で降級して、「負け犬」を自称し、バブル期の「負け組」にメッセージを送った人である。負けた将棋は見たくもない。勝った将棋は、何時間もかけて並べ直してうっとりする。詰め将棋やれと米長邦雄九段は言うが、古典の難しいのなんか自分には解けない。時々アマ三級クラスのものが解けなかったりする。等など、米長の『人間における勝負の研究』とは真っ向から対立するようなことを言っている。かつては街や、あるいは県で、天才少年と言われた逸材たちが、頂上を極められぬまま、実力だけが頼りの世界で、容赦ない率直発言にさらされ、無念をかみしめながら生きている様子が描かれている。木村はそんな負け犬の一人として、将棋界を描いている。ーー天才の誉れ高かった芹沢博文も一期しか在籍しなかったA級に昇級して負け犬もなにもないと思うけどね。−−そんな木村のところに、名人候補の福崎が稽古に通っていたらしい。練習将棋で、木村はケロケロにされたが、木村は福崎の姿勢に惚れ込んでいる様子であった。福崎が一度だけ、怒ったことがあるという。ある時木村が、自分の弟子を四段くらいにはなって欲しいと言うと、いくら師匠だからといっても、「人を評価値踏みするのは魂の冒涜だ」と反論したそうだ。福崎はコメディアンのようになってしまった。それもスローライフなのだろうか。NHKの対局で、福崎は手筋一閃でお約束のように負けた。
 『ボクは陽気な負け犬』には、今は「かまいたち」戦法で有名な鈴木英春も登場する。年令制限ができ、三〇歳までに四段=プロになれないと、プロ養成機関の奨励会をやめなきゃいけない規定ができて、奨励会を退会した第一号である。鈴木は、「負け犬」の木村に率直発言をし、時には虚勢を張り、焦燥を隠さなかったようだ。鈴木は、お寺で禅坊主のような生活をしたり、戦法の研究をしたり、ひたむきな自己陶冶をしたが、プロになれなかった。木村八段は、その鈴木三段に練習で負けたりもしたことを、隠さず書いている。鈴木は、その後アマチュアの大会で活躍した。慕う人々や家族もいる。石川県で、英春流家元として会員制の将棋教室「将棋晩成塾」を主唱し、『将棋泣き笑い』他の著作も出版している。これもスローライフなのか?今は、プロアマオープンのタイトル戦もある。プロがアマに負けても、それほどのニュースでもない。そうした生き方を諧謔満点に描く木村の筆致は、実にユニークだと思う。
 鈴木をモデルにしたテレビドラマに「煙が目にしみる」(NHK銀河小説)がある。川谷拓三、根岸季衣が主演。脚本ジェームス三木。負け犬の将棋さしと、どさまわりのストリッパー(だったと思うけど)の話。お約束のような展開で、二人は破局し、ストリッパーは身を引いて旅に出る。将棋さしは、コケの一念で最後の勝負に勝ち、プロになる。そして、迎えに行く。ドラマを見て、坊や時代に世話になったストリッパーと結婚した萩本欽一や、マレーネデートリヒの『嘆きの天使』などが連想された。ドラマは、ハッピーエンドに歪曲されたのか?かならずしもハッピーエンドとは限らないかもというのは、言いすぎなのだろうか。

梅谷文夫氏の日本文学講義

 知遇を得、自己紹介などすると、すぐさまなぜ東京大学に行かなかったのですかなどと聞いてくる人がいる。この場合、私が見苦しい言い訳をすることを、相手が待ちかまえている場合がままある。しかし、私にはその質問は無意味だ。だって、一橋大学だって無理だって言われていたんだから。浪人するのもやむなしで、第一志望駿台予備校文一、第二志望特文、第三志望代ゼミなどと言っていた。予備校には願書を出したが、私学は出さなかった。行く気がしなかったわけではない。受からないと思ったからである。古文と漢文が絶望的にできなかった。英語も苦手だった。科目が少ない私学入試でそれは致命的だった。一橋を受けたのは、南博『日本人の心理』『社会心理学入門』を読んだことが理由だが、入試問題を見て古文と漢文はほとんどでないし、英語も英訳、和訳だけだったからだ。まぐれで受かったが、入学後も、国語力と、英語力に随分悩んだ。
 当時『古文研究法』という参考書が有名だったが、誰も何故イイかは教えてくれなかった。私がそれを知ったのは、大学教師になったあとである。和田秀樹氏の『受験は要領』という本の説明で、得心した次第。古典の時代の感性を要領よくまとめてあるということなのだ。その意味がわからず、私は立ち往生してしまった。岡山時代同僚だった藤原克己氏は、ある工学部の学生の感想を聞いて嘆いていた。「高校時代の古文は、英語や数学みたいで面白かったが、大学の古文は、高校の現代国語みたいでつまらない」。もちろん、この学生のような人ばかりだったわけではない。藤原氏の講義は、卒業生も聴きに来るというもので、岡山大学の教養部において伝説的な講義だった。
 高校時代の私は、工学部の学生さんの言う面白さも、藤原氏の講じる面白さも、わからなかったと言えるだろう。ところが、大学での国語系の講義は面白く、得るモノは大きかった。これは幸福なことであった。亀井孝氏もユニークであったが、もう一人の梅谷文夫氏もまたユニークであった。梅谷氏は、経済界にすすんだ人にも大きな影響を与えている。たとえば、日興アセットマネジメント株式会社の藤原敬之氏(少し後輩で面識はない)は次のように語っている。


以前も白状したが本当にいいかげんな学生でほとんど講義には出ず名画座とジャズ喫茶に入り浸っている毎日だった。そんな大学生活で唯一1年間ほぼ完全に出席した講義があった。梅谷文夫先生の「日本文学」で1年間集中的に江戸時代の傾城文学、つまり吉原など廓を舞台にした物語についての講義で、正式受講生300名超、実際講義に出ていたのはいつもたった4人というものだった(80年代前半の一橋大学には、いかにいいかげんな学生が多かったかこれでよくわかる)。この講義が抜群に面白かった。梅谷先生の碩学・博学には毎回感心させられることしきりで、当時映画監督になることを本気で考えていた自分は、江戸時代の映画を撮る時の参考にと嬉々としてノートをとっていた。この講義を克明に聴き書いたノートは今も宝である。そんなこんなで歌舞伎をめぐる興味は持ちつづけている。