梅谷文夫氏の日本文学講義

 知遇を得、自己紹介などすると、すぐさまなぜ東京大学に行かなかったのですかなどと聞いてくる人がいる。この場合、私が見苦しい言い訳をすることを、相手が待ちかまえている場合がままある。しかし、私にはその質問は無意味だ。だって、一橋大学だって無理だって言われていたんだから。浪人するのもやむなしで、第一志望駿台予備校文一、第二志望特文、第三志望代ゼミなどと言っていた。予備校には願書を出したが、私学は出さなかった。行く気がしなかったわけではない。受からないと思ったからである。古文と漢文が絶望的にできなかった。英語も苦手だった。科目が少ない私学入試でそれは致命的だった。一橋を受けたのは、南博『日本人の心理』『社会心理学入門』を読んだことが理由だが、入試問題を見て古文と漢文はほとんどでないし、英語も英訳、和訳だけだったからだ。まぐれで受かったが、入学後も、国語力と、英語力に随分悩んだ。
 当時『古文研究法』という参考書が有名だったが、誰も何故イイかは教えてくれなかった。私がそれを知ったのは、大学教師になったあとである。和田秀樹氏の『受験は要領』という本の説明で、得心した次第。古典の時代の感性を要領よくまとめてあるということなのだ。その意味がわからず、私は立ち往生してしまった。岡山時代同僚だった藤原克己氏は、ある工学部の学生の感想を聞いて嘆いていた。「高校時代の古文は、英語や数学みたいで面白かったが、大学の古文は、高校の現代国語みたいでつまらない」。もちろん、この学生のような人ばかりだったわけではない。藤原氏の講義は、卒業生も聴きに来るというもので、岡山大学の教養部において伝説的な講義だった。
 高校時代の私は、工学部の学生さんの言う面白さも、藤原氏の講じる面白さも、わからなかったと言えるだろう。ところが、大学での国語系の講義は面白く、得るモノは大きかった。これは幸福なことであった。亀井孝氏もユニークであったが、もう一人の梅谷文夫氏もまたユニークであった。梅谷氏は、経済界にすすんだ人にも大きな影響を与えている。たとえば、日興アセットマネジメント株式会社の藤原敬之氏(少し後輩で面識はない)は次のように語っている。


以前も白状したが本当にいいかげんな学生でほとんど講義には出ず名画座とジャズ喫茶に入り浸っている毎日だった。そんな大学生活で唯一1年間ほぼ完全に出席した講義があった。梅谷文夫先生の「日本文学」で1年間集中的に江戸時代の傾城文学、つまり吉原など廓を舞台にした物語についての講義で、正式受講生300名超、実際講義に出ていたのはいつもたった4人というものだった(80年代前半の一橋大学には、いかにいいかげんな学生が多かったかこれでよくわかる)。この講義が抜群に面白かった。梅谷先生の碩学・博学には毎回感心させられることしきりで、当時映画監督になることを本気で考えていた自分は、江戸時代の映画を撮る時の参考にと嬉々としてノートをとっていた。この講義を克明に聴き書いたノートは今も宝である。そんなこんなで歌舞伎をめぐる興味は持ちつづけている。