鈴木弘輝『生きる希望を忘れた若者たち』

 雨が降っていルと、骨折者には外出が困難である。とりあえず鈴木弘輝『生きる希望を忘れた若者たち』をペラペラとめくる。先日いただいたものである。いつも本当に申し訳ないかぎりであります。心よりお礼申し上げます。そして、新書出版お祝い申し上げます。概要と目次は次の通りである。

生きる希望を忘れた若者たち (講談社現代新書)

生きる希望を忘れた若者たち (講談社現代新書)

なぜ彼らは「成長」を望まないのか?
宮台真司門下の俊英が2010年代の若者を解読!


「生きる見本」の不在から「生きる希望」の忘却へ
この本では「近代から現代へ」という時代の流れを論ずることを通して、若者からみた「生きる見本」の不在という問題を指摘することを目指している。しかし、この問題の指摘を通して、私はさらに重要な問題が現代の日本社会にあることを指摘したい。それは、人々が「生きる希望」を自ら持っていたことを忘れるようになるというものである。また、この問題は二つの段階に分けられる。第一段階では、「いま」だけを重視するコミュニケーションが支配的になり、第二段階では、人々がそれぞれの生き続ける指針を見失ってしまう。そして、第二段階がある程度まで達成される中で、第一段階にある「いま」だけを重視するコミュニケーションの中に居続けるようになると、人々は自分が「生きる希望」を持っていたことをいつしか忘れるようになると考えられる――<本文より>


目次
序章 社会学と教育現場の往復から考える
第一章 「虚構」の時代としての現代――1970年代後半を「始まり」とみる
第二章 「いまの愛情」の時代としての現代――1980年代後半を「始まり」とみる
第三章 「塾講師」の体験からみた現代――<魔のない世界>からの追放/解放
終章 「不確実な未来、残酷な世界」を生きるために
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=288142X

 読み始めてしばらくすると、ピンクパンサーの着ぐるみを着て塾の教え子の前に登場した話が出てくる。ワクワクしながら、著者近影を見るも、すっぴんでがっかりする。ちぇっ、と舌打ちして、パンツのぬぎっぷり悪すぎ、と八つ当たりをしてみる。
 話題の新書本とかって、ものほんの桜吹雪でなくても、偽物のマジックインキで書いたようなくりからもんもんでも、とりあえずもろ肌脱いで、気合いだけでキンタマとか怒でかく書いて誇示し、ウリウリするセクハラまがいのものが多いじゃん。ちまたの合コンとか、或いは教室(え?ww)でも、できあいの勝負台詞でも、勝負表情でも、勝負仕草でも、けっこう人はついてくるわけだし、元ポパイ編集長の旧知は、この世界柳の下にドジョウは何匹でもいるわけだし、とか言ってたし。だから、師匠にひっかけて、まったりからほっこり、とか言ってもけっこう通用しちゃったり、・・・しねぇか。ww まあでも、師匠もコピー化という点では、わりに不発だよねぇ。直伝されたものはもっと他にあるはずで、それはたぶん事実発見と論理的な解析なんだろうと思う。
 で、とりあえずキモを探す。と、最初のところで、一人称で語る、と高らかに宣言してある。しかし、段取りに、数ページを費やしたりしていて、短気な読者にはなかなかのイケズぶりである。全体を通して、学問の道を踏み外さないように、丁寧にことばが定義され、段取りが説明され、先行研究などがコンパクトにレビューされている。これを、回りくどいというか、わかりやすいというかは、むしろ読者の志の問題ではないかと思われる。必要最小限のことが丁寧に書かれているだけのことである。その分、体験などの記述がコンパクトになっているのは、私的には残念だった。
 しかし、その手短に書かれた事例が、なかなかに鮮明なイメージを喚起する。近現代二段階論ではなく、現代二段階論を提起し、そこに3.11という切断を絡めて、大手出版社からOKをもらう作品性に仕上げている。たぶん、/(スラッシュ)でごまかすんぢゃねぇよ、とか言う人もいるのかもしれないけれど、自分なりに理論社会学のオトシマエをつけて、責任を取ろうとしているように思った。イメージと論理がなかなか玄妙なバランスで、言いたいことがじんわり伝わってくるような気がした。
 右から左へとなんでもかんでも論理でねじ伏せようとするのではなく、それなりの按配が配意されている。この按配を生かすも殺すも、読者次第で、いい書評がでて、座談などでこーきたんワールドが拓けることを期待するものであります。