小林正幸『力道山をめぐる体験』

 先日出版社のほうから、この本が送られてきました。著者からだとすれば、申し訳ないかぎりです。若手の人から本をいただくと、献本代金をケチっている自分が恥ずかしくなります。出したから買ってちょ、とかご一報いただければ、がちで買うタイプですぜ。ワシは。それはともかく、本当にありがとうございました。ちょっといろいろ仕事が山積していて、お礼がすっかり送れてしまいました。すみませんでした。
 ぺらぺらとめくってみて、まず思ったのは、「この類の社会学書」には食傷気味なんだ、とおっしゃるようなタイプの研究者も、本書にはあまりそういうアレルギー反応を感じないのではないかと思う、ということである。資料を積み重ねながら、戦後史のなかの力道山イメージ、力道山体験を篤実に掘り下げてゆく筆致は、コクのある濃厚な読み応えの作品を紡ぎ出している。

力道山をめぐる体験―プロレスから見るメディアと社会

力道山をめぐる体験―プロレスから見るメディアと社会

序章 力道山プロレス論の視角
第1章 力道山プロレスの胎動
第2章 「日本一」としての力道山伝説の諸相
第3章 ルー・テーズとプロレス記号論
第4章 「テレビ・プロレス」と力道山
第5章 「テレビ・プロレス」の完成と力道山の死
終章 力道山体験と「闘い」の感染

岡井崇之さんの書評@紀伊国屋書評空間

 本書は力道山をめぐるこれまでの通説(著者によれば「力道山常識論」)に疑問を唱えるところから出発する。


力道山力道山として表象したのは、戦後の日本人の複雑な感情の反映に限定されるものだったのだろうか。…中略…この通説が唯一の力道山の意味であるとするなら、当時の日本人の戦後体験はすべからく一様であるということになるし、日本人のなかに存在する世代や階級などの社会的主体性の差異が失効していたことになる」(10頁)


 そうして、本書は力道山を一枚岩的にとらえることを避け、力道山というイメージ(著者の言葉では偶像)が持っていた多様な意味をすくい取ろうとするのである。


 本書の構成は、全7章と年表を合わせて352頁からなり、読み応えのあるものである。また、そこには街頭テレビ論やメディア・リテラシー論、集合的記憶、オーディエンス論などなど、メディアや社会をとらえようとするうえでさまざまな理論装置がちりばめられている。こういった個々の論述もメディア論を専門とする評者には大変興味深かった。また、そこでは、中野収稲増龍夫、富山英彦・・・といった、これまで出会った恩師や同僚のメディアに関する思索を受け止め、それぞれを貪欲に吸収しようとする著者の誠実な姿勢が垣間見える。
しかし、本書を貫く最も主要なテーマは「どうしてこれほどまでに力道山と街頭テレビのカップリングが公共的な記憶を構築したのか」という点にあるように思う。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/okai/archives/2011/06/post_12.html

出版社による紹介

本日、弊社久しぶりの新刊『力道山をめぐる体験――プロレスから見るメディアと社会』の見本が届く。本当に新刊を出すのは久しぶりで、いつ以来だろうと探してみたら、『トラブル依頼人』以来ということになる。つまり、昨年の8月以来というわけだ。おかげで、新刊見本のやり方をすっかり忘れてしまった(ウソウソ)。・・・まあ、そんなことはどうでもいい。本文、A5判368ページというクソ重い本書をカバンに詰め、取次各社を回るたびに出ることにする。
http://blog.goo.ne.jp/wind-dust/e/8c19ca1501b7219580898587d39721b6

 岡田さんの書評は力作であり、一定の読者には非常にキャッチィなものだと思う。これを読んで、買うぞと言う人は少なくないだろう。でも、目次のプロレス記号論、戦後体験としての力道山体験などという文言を見て、ちりばめられている理論装置や、公共的記憶云々などというくだりをみるならば、やっぱりその類?、という人もいるんだろうと思う。戦後日本のエートスというコンテクストを描き出すという一般化のモチーフも、パラメーターは何よ、と問いかけたくなる人もいるんじゃないかと思う。
 しかし、著者は「実にタイミングよくほんの短い期間に成立した街頭テレビ」というような表現を用いる人でもあるのだ。批評用語、理論装置、一般化のモチーフなどよりも、力道山体験を分厚い事実を積み重ねて、体験の意味合いを安直な場所に落とし込むのではなく、一定の歴史的偶然において図式化されるものとして、丁寧に描き出しているところにこそ、本書の真価はあるのではないかと思った。