雑談の社会学と社会学的観察力

Mocha Supremo

Mocha Supremo

 概論の授業評価の結果が出たが、書くことはできない。非公表を前提にしてやっている調査なので、安易に公開することは、慎むべきであるからだ。しかし、受講者のうち30人くらいがフリーコメントをつけていて、そのことごとくが「雑談」という点に言及していたのは、非常に印象深かった。ちなみに私は、自覚的には前期は一度も雑談をしていない。エッセイ風に授業をしたとは言えるだろうし、観察眼と社会学的な思考枠組を照らし合わせて欲しい、という気持ちは、若干は伝わっている気はする。
 まあ考えてみると、教養部という部局に就職し、しかも岡山大学には社会学を専門的に学ぶところが文学部にはなかったから、社会学の授業をとるのは、まったく関係ない連中で、そこで専門学部のような実直な講義をされている先生もいらっしゃったことはいらっしゃったが、多くの先生は教養なりのサービスとういうことをしていた。今は、東京大学に帰られた某碩学の文学の講義は、卒業生もときどき聴きに来るというほどの知的魅力にあふれるものということで、多くの学生教職員の尊敬を集めていたが、その先生も「半田山は今日も美しいですねぇ」などと、雑談されることもあったと聞いている。
 そして、あとでうかがったのだが、教養の場合はそれなりにサービスもしているという話だった。受験の古文は数学や英語に近かったけど、大学の古文は現代国語みたいだ、と言われて悩んだという問題提起をされていたことは、今でも忘れられない。私もよく使う。社会学は現代国語のようなところがある。と言うか、この前の1年ゼミのリアクションペーパーに、こちらがなにも言う前に、「現代国語の授業みたい」などと書かれてしまっていたりした。
 今考えると、いろんな分野の先生が、楽屋話を交えながら、専門の骨法を語るという空気は、ジツに楽しかったし、専門を教えるようになり、そういうのがなくなったことは、残念でならないのだが、とにもかくにも教師最初の11年間は、雑談の修行であったとも言えるわけだ。まあけっこういいかげんな話もしたとは思うけど、話しているうちに思考が躍動してくることもあり、それなりに手ごたえもあった。学生たちも無理な課題を出しても、一生懸命答えてくれた。唯一の自慢は、すべての希望者にコメントをつけて、レポートなり答案なりを返却していたことだ。しかし、それもだんだんやめてしまった。今は、採点簿の管理という観点から、返却することはできなくなっている。答案なら、両面コピーという手はあるが、レポートは絶望的である。個人の基地みたいなサイトを学生全員がネット上にもてるようになれば、そこにレポートをアップさせれば、コメントもつけられる。ただ、これはもうできるのかもしれない。うちの大学は、あまり目立たないが、それなりに電子ラーニングのシステムは整えていると聞き及んでいるからだ。
 で、自分の講義なんだが、専門の場合ちょっと問題なのかもしれないが、「雑談の社会学」というプロジェクトもないではないだろう。ただ、本にするには、あまりにコンセプトが貧弱だし、また、話題というのもすぐダメになってしまうと言うことも大きいだろう。だって、私のネットサイトのプリントをアップするサイトで、パスワードを間違って入力すると、「パスワードをゲッツ!」とか恥ずかしい文言が出てくる用になっていて、これをこの前セントポール大学で実演したんだが、どうにも嗤われた。
 あと、「社会学的観察力」という企画も思いつくが、これは書くのが難しすぎる。というか、そういうタイトルの本で学べることでもないだろう。難しいものである。