高円寺バカ踊りをめぐって

デイ・ドリーム

デイ・ドリーム

 阿波踊りというのは、昔バカ踊りと言っていた記憶がある。アド街の高円寺の記録映像なんかをみていても、はじまった頃はバカ踊りだった。だけど、仏教大学の平成の大莫迦門騒動なんかが起こるかなり前から、さすがにその言い方はまずいだろうということで、バカ踊りはまずいってことになり、言わなくなったんだよな。コンクールに出るというサゲのバカ踊り名の映画はあるし、どうも変、とか思って、調べた。違うのね。モロありました。消えてしまっている記事なので、全文クリップ。

 東京都杉並区の高円寺は、阿波踊りが開かれる8月の2日間、120万人もの人出でにぎわう。
 05年12月、JR中央線・高円寺駅前の商店街。冨澤武幸さん(50)の漬物店は、年の瀬の忙しさに追われていた。
 「阿波踊りについて、お聞きしたいことがあるんです」。若者が、店の中をのぞきこんでいる。石井町出身で早稲田大の4年だった阿部知彦さん(25)だった。
 「忙しい時に」。冨澤さんは正直、思った。阿波踊りを運営するNPO法人で渉外担当をしていた冨澤さんのもとには、「地域振興」を研究する学生らがよく訪ねてくる。
 「要点を話してくれ」
 「徳島も経済がよくない。何とか盛り上げるために大学院で勉強しようと思っています。阿波踊りで地域を盛り上げるにはどうすればいいんでしょうか」。さらに言った。「よさこいは全国に広まって地域を盛り上げている。負けたくない」。冨澤さんは、これに反応した。同じ日に開かれる原宿のよさこい祭りとは、何かと比較されてきたからだ。
 「やってみたら」。冨澤さんは運営に加わるよう誘った。「師団長は何人もいるが、小隊長がいないんだ」。毎年100人近く集まるボランティアを機能的に動かすチームもほしかった。
 阿部さんは06年8月、徳島出身の学生を中心に10人ほどのグループをつくった。見物客の案内、通訳、荷物運搬、交通整理……。演舞場ごとに何が必要かを聞いて回ってボランティアに指示した。2日間で600キロにもなるごみを拾い、分別もした。07年、高円寺にちなんでグループは「CO‐ENGINE(コー・エンジン)」と名付け、メンバーも20〜30人に増えた。
 高円寺の阿波踊りが始まったのは1957年。空襲で焼けた街が、かつての姿に戻ってきた頃だ。商店主ら38人が商店街活性化策の目玉を考えたが、道幅が狭いので神輿(み・こし)は入らず盆踊りもできない。「阿波踊りなら」と選んだ。
 だが、ほとんどの人が知らない。民謡の先生が教えてくれた振り付けで、踊り手はなぜか白粉と口紅をつけ、チンドン屋がお囃子(はや・し)を奏でた。「ばか踊り」。みんな、そう呼んだ。
 デタラメさに危機感を持った商店主が呼びかけ、徳島出身の人たちが結成した連の指導を受けた。「阿波踊り留学」の積み立てが始まり、徳島にも旅立った。徳島の有名連との姉妹連も、次々に誕生。「ばか踊り」は「阿波踊り」になった。
 「高円寺の阿波踊りが成長できたのは、徳島の人々とのふれあいがあったから。徳島は恩師なんです」。冨澤さんは、そんな気持ちでCO‐ENGINEの活動を今も後押ししている。「大事なのは、高円寺で活動した学生たちが、故郷でどんな働きをしてくれるかだ」
 阿波踊りが開幕した12日、阿部さんは有名連の一員として演舞場で舞った。大学院を修了した阿部さんは昨年4月、徳島市役所に入り、障害福祉課で働いている。「一生懸命やっている人の間に入り、思いをつなげる。そんな仕事をやってみたい」。高円寺での経験が生きている。
http://mytown.asahi.com/

アド街でもやっていたけど、最初はめちゃくちゃで、踊る阿呆に見る阿呆というのはいいとして、全国踊りちゃんこ鍋状態で、大暴れみたいな感じだったのね。まあアテクシ的には、こっちのほうが面白いとは思うんですよ。まあ治安当局は絶対に認めないだろうけど、野毛のバカ踊りとかやって、国籍もへったくれもなく、飛び入りオッケー、気がついたら、前で何日も風呂は行っていないのみたいなのがかついでいたりとか、踊っているところに御輿が突入して、いきなりそれがだんじりに変わって、さらに博多の・・・とか、メタモルフォーゼしまくって、踊る阿呆に見る阿呆がやーれんそーらんらっせらっせらっせら、みたいなのとか。w 
 それはまあ冗談だけど、高円寺の最初は、それほどじゃないにしても、ちょっと近かったところはあるみたいなのね。阿波踊りなのに、別の衣装着ていたりとか。まあそれで成功した、ってだいぶ違うかもしれないけど、よさこいソーランというのもあったわけだし。
 まあただ、ことば的にもバカ踊りはまずいだろうけどね。