社会調査士をめぐって

 社会調査における日本のトップランナーの一人と言ってもよい社会学者Kさんのブログで、専門社会調査士について、「社会調査の一級建築士」という表現を用いていた。これはコピーとして使えるな、と思った。うちの大学は、社会調査士だけではなく、専門社会調査士が認定できるようになっているのである。社会調査士をとれるところはけっこうあるが、専門社会調査士をとれるところは少ない。
 これは東京女子大学現代教養学部国際社会学社会学専攻の大きなアピールポイントになるんじゃないかな、と思った。所属スタッフ全員が専門社会調査士であり、また調査実習の講義は、学部も院もゼミ別の少人数制になっている。Kさんの大学のように合格者数を誇ることはできないが、数が少ないだけに率はねらえるかもしれない。司法試験で一人受験、一人合格みたいなことがあったように。こんなふうにやや強引に有利な事実だけをならべてみると、なかなかの威容であることに気がついた。そんなわけで、高校生のみなさん、ふるってご受験ください。国際関係を学んでいても、経済学を学んでいても、調査士の資格をとれるようには、一応しておりますが、社会学専攻の場合はごく普通に履修していけばとれますし、経済や国際関係を専門の単位として履修することもできますから。w 専門社会調査士を育成する大学院のほうは、一人の学生に二人指導教員がつくようになっており、実際は教員数人で一人の学生を育成するようになっています。だから、私のようなはんちくな教員のゼミになってもぜんぜん安心ですよ。垣根も比較的低いので、他分野も履修できますよ。
 それはともかく、法人化されて、さらに認定の方式が検定試験のようになっていくなどの変化があるかもしれない。指導する教員も襟を正すべきところであろう。認定校になって、学生に対してシビアなことを言えるようになったのは、舐められやすいタイプの私としては都合のイイ面もある。と同時に、オマエなんかで大丈夫かと、からかわれるリスクは高まったとも言える。
 今のところ、どういうわけか、あまりからかわれることはない。学生たちに、「英語の本読めるんですか!?」と言われることはあっても、「調査できるんですか!?」と言われることはない。逆だぞ、逆。www 私は、専門社会調査士の資格をもってはいるのだが、これまでに書いた論文とか本で認定されたかたちで、え!いいの?とっちゃって、みたいな勢いであり、なんとも照れくさくて「8条項な人々の一人」「なんちゃって調査士」などと、痛いコピーを考えたりして、自分を紛らわすこともあるし、一人照れ笑いをすることもある。で、よく考えてみると、「社会調査の一級建築士」というのは、所属大学の宣伝にはとてもよいが、自称するとなると、かなり痛い、というか私には痛すぎる。
 ミルズが知的職人論というのを書いている。それからすると、一級建築士ではなく、「社会調査の宮大工」というような言い方も可能なのだろう。宮大工論と言えば、一つ思い出した。職場で、うちのぢいさまは左官屋で、アテクシも大学なんて行かないで宮大工をめざすほうがよかったかもしれない・・・、などと嘯いていたら、同僚たちに「宮大工というのがなんとも痛いわね」みたいに言われて、笑いものになった。
 たしかに、しゃびぃな価値観剥き出しである。笑い話でそれがずけずけ言われるのは、私的にはすごく気に入っている。折れやすい今どきの学生と違って、私は怒られて踏みつけられてのびるタイプなのだ。宮大工というのが痛いだけではなく、考えてみると、左官というのも一級建築士になれるのである。実際、うちのぢいさまのまわりでも資格を取る人はけっこういて、自慢そうに看板に掲げてあったところもある。しかし、うちのぢいさんというのはスゴイ人で、見向きもせず黙々と仕事をし続けた筋金入りの職人である。口の悪い人で、「おまいみたいなのは、仕事は早いが、棚一つ満足につくれない叩き大工みたいなもんだ」などと言われたのを思い出した。「社会調査の叩き大工」。なんとなく、そうかもと思ってしまったりするところが怖い。
 ミルズ本の共著者と話しているときに、福祉系の資格にしても、調査の資格にしても、資格の9割が精神論じゃないかな、などという結論に至った。医学部なんかでも、精神論をかなり重視している。前任校では解剖実習でご遺体にふざけたマネをした学生を一発退学にしたこともあると聞いた。とある同級生は、解剖実習で鉄拳制裁を受けた。
 調査だって、テクニックをいくら学んでいても、精神論ができていないと、研ぎ澄ました刀を持って、辻斬り、試し斬りに出かけるようなものだろう。大学時代の後輩で、押しも押されもしない調査のエキスパートでもあるソフィア大学のF氏に昔教えを請うたときに、身につけるべき解析方法についてひととおり丁寧に説明したあとに、技法技術の類は実はぶっつけでどうにでもなる部分もあるんですよね、と言われたことを思い出した。
 私は「叩き大工」で、ろくな技術もない、なんちゃってであることは、自分でも身に凍みてはいるが、授業で勘違いなやつらにヤキを入れることくらいはできると思い、今までやってきた。勘違いなやつらとは、威風堂々大学名ゼミ名を名乗って、調査させたいならしてやってもいい、と言わんばかりの「お客様」意識を充溢させたようなやつで、勝手にあがりこんで、儀礼的にすすめられたお茶とお菓子をベタに享受するのみならず、おかわりしたり、妙な自慢話しはじめたり、勝手に録画録音などしたり・・・などという精神構造の持ち主のことである。まあそんなのはめったにいないが、重ね焼きして、濃縮すると、そういう理念型が取り出せないこともない。
 学生を見ていると勉学意識はこの10年ですごく高まったと思う。教師に成り立ての頃は、「この授業を聴いても、なんの役にも立ちません。」とか宣言して授業をはじめても、喜ぶやつしかいなかった。今は、大学に抗議の電話をかける人もいるんじゃないか、と言うくらい勉強熱心な人が増えている。教師との関わりでも、水際だっていて、ミス一つないように神経を使っているのが、痛いようにわかる。「バカで勝負する」がゼミ是であったような時代が、なつかしい。勝負できるバカは、ほうれんそうだとか、気配りだとか、基本ができているやつが多かったように思う。まあそれでも、たばこを吸わない教員の部屋を喫煙室にしているやつとか、飲んだ牛乳パックなど喰いちらかしを研究室に残していくようなレベルのもいたわけで、一方的に美化するわけにもいかないのだが。