もちんぽ細山君の成長とマンガ論

 日テレの「世界一受けたい授業」という番組を見た。ながらでちょいとみたりしたことはあったが、じっくりみたのははじめてで、マユゲボンのいもとなんかがいるなかで、ひときわ異彩を放っていたのが、新手のオカマみたいな妙な衣装を着たトッちゃん坊や。なんか、鈴木ひろみつがドリフかなんかで子どもの役をやったかんじ。で、よく見たら、こいつダウンタウンのもちんぽでおなじみの細山貴嶺こともちんぽ細山くんぢゃね?と思って調べたら、モロそうで大笑い。男おばさんの軽部に似ているっていう話だったけど、それよりひろみつだろ。幼少のころの凶暴なイヤミが消えて、パサパサになっているのが、かなりブルースだったように思う。
 廃棄予定の山を整理していてみつけた世界思想社のPR誌に一通り目を通す。特集が「大学と教養」で、豪華執筆陣が寄稿している。教養教育を標榜する部局に勤める者としては、姿勢を正して読むべきものだろう。

世界思想 36号 2009春 ― 特集 大学と教養 (PR誌 世界思想)

大学と教養……猪木武徳
高等教育の普及は下等大衆社会の普及なり……竹内 洋
「時代の終わり」の教養……森 毅
知の制度化を超える力……内山勝利
大学人と生きている教養……坂東昌子
「集団嫌い」と大学……渡部 真
大学に教養はあるか……川村邦光
中教審答申の中での「教養」……濱名 篤
自己成長モードが大学生を教養に導く……溝上慎一
共感のためのリテラシーとしての教養……乾 淑子
違和感を手放さずに……大門正克
旧制高校と教養……竹尾治一郎
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 猪木武徳が、マンガについて言及していたのは面白かった。文字は想像力を喚起するが、マンガはダイレクトに絵が飛び込んでくるから知が退嬰する、みたいなカンジの言い方は、一見すると言い古された理屈のようでもある。しかし、よく考えてみると、マンガを礼賛する知性というものは、けっしてマンガではない。この相対性をおいておいて、展開されるマンガ論などというものは、やっぱり問題あるんだろうなぁ、などと考えはじめた。
 活字文化のゲージツをマンガに移しかえるというような作品性はマンガとしては愚にもつかないもので、むしろマンガ自体の持つ絵やロゴやなんかが持つ作品性みたいなものにこそ注目すべきだ、みたいなことだけを考えてきたのだが、上の思考に照らすと、いったいどうなるんだろうと、考え込んでしまった。その辺をカッコに入れて、礼賛「論」にしてもなんにしてもマンガ「論」を言うみたいなことは、ちょっとハッピーすぎるんだろうね。それだったら、カチンコチン商品として議論する方が、ずっと筋道は通っているし。もちろん一部の文明史的な展望を持った議論は、活字だマンガだ商品だ・・・みたいなことを、すべて総括するような議論なわけで、ちょっと異なるとは思うけど、それにしてもその辺の屈折に配意した方法意識が、少なくとも自分には欠落していた、という非常にお恥ずかしい次第であることに気づき、トホホであった。