社会学的想像力実践編に向けて:「トレースとしての読み」

 今日は入試の監督でした。一日中たっていましたが、なるべく片足で立つ努力をしていたので、かなり運動になったと思います。ただ前でやると受験生の邪魔になるかも知れないと思い、後でやったのですが、前にいた学生さんには見えないように気を遣っていたのですが、ちょっと前の人とは目が合ってしまい恥ずかしいものがありました。まあ音はしなかったし、オーバーアクションもなかったと思いますが。
 国語の入試が始まるなり、みんな文章に線を引いたり、枠で囲んだり、たちまち「トレースしまくり」状況で、高校時代を思い出しました。私も高校時代は、そういうのが国語の読解だと思いこんでいました。だからめったやたらに線を引く、酷い場合はすべてに線を引きたくなる。囲みたくなる。大学に入ってからは、かりかり音のする赤ペンで塗り絵みたいにしたり。
 そんなのを友だちにバカにされて、こけにされて、けちょんけちょんにされて、んでもって方法を盗んで、失敗して・・・と試行錯誤でなんとかトレースの方法を覚えていったんだと思う。だいたいにおいて、授業のノートとれるようになったのは、私の場合ドクターコースに入って二年くらいたってからだと思う。私はあまりできない学生だったので、ドクターにいっても、勉強のために学部の授業に出ていたのである。そのくらいになって講義ノートも読書ノートもレジュメも上手くつくれるようになったように思う。そんなとろくさい人は少ないと思うが、私の場合クソ時間がかかった。
 結局英語の本を読むときなどは、欄外に単語の意味とかは絶対に書かない。日本語の本を読むときには、ここ引用しようみたいなところは、カギ括弧で括って欄外に印をつける、または裏表紙とかに自分用のインデックスをつくるみたいにして、論旨を追うための線は引かないというのが、結論だ。
 論旨を追うために線を引くなら二カ所。マルなどで囲むのは接続詞ひとつ。それがなければ、斜線一本。これだけだろう。これは、『教養としての大学受験国語』などで著者が展開している「センを引く」ということの意味だろうし、名著といわれた『新釈現代文』で書いてあったことらしい。らしいというのは、私は駿台予備校の模擬試験で国語8点だったこともあるくらい、アホだったからだ。
 じゃあなんで大学に受かったのかといえば、文章が肌に合うというか、傾向が自分に合っていたので、トレースしやすかったということだろうと思う。そう自慢したら、事情通の先輩に、亀井孝さんのつくる問題は鬼難しいので、みんな悪い点で、国語ではほとんど差がつかないんだよ、と教えてくれた。もちろん爆(´・ω・`)ショボーンであった。
 逆に言えば、過去問とか解きまくって、要求されているトレースの水準やパターンを自分なりに整理しておけば、かなり有効な対策になると思ったりもした。というか、今は「教養としての」をはじめとして、そういう参考書は鬼のようにたくさん出ているんだろうね。見てみたい気はするが、まあそんな暇もない。
 そんなことをするくらいなら、社会学的想像力の実践編として、「トレースとしての読み」のパターンを整理することくらいはしないといけないのかも知れない。ただまあ、トレースというのはいうまでもなく松岡正剛からのパクリだし、それにトレースとしての読みとか言っても、誰かが言っていることをトレースというマジックワードで括ってみただけだからね。松岡正剛の場合、編集学という核があるからまだしも、こっちの法が社会学的想像力を明確化するパラメーターがなんにもないわけだし。トホホ。