読んでない本を語る

 加齢御飯さんのブログにあったエントリー。なんの本について言っているんだろうと思ったら、『読んでいない本について堂々と語る方法』という本でエントリーそのままの題名の本だった。そして、筑摩書房とは思えないキャッチ文。『本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ……大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス論壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。これ一冊あれば、とっさのコメントも、レポートや小論文、「読書感想文」も、もう怖くない! 』。
 まさに、ウソをつけ!というカンジではある。レポートや小論文は怖すぎだろ。そもそも大読書家を「創造力がない」と切り捨てているんだぜ。コピペ世代にはいかんともしがたいものがあるだろう。

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

読んでいない本について堂々と語る方法

 丁寧に最初から最後まで読まなければ読んだことにはならないのだろうか。流し読みはだめなのか。散々人からその内容について聞かされた結果読んだような気分になっているが、実は読んでいない本というのも珍しくないだろう。逆に本当は読んだのだが、内容だけではなく、読んだ事実さえ忘れている場合もあるはずだ。


 本を読んだか読まないかは大きな問題ではない。知的世界(バイヤールはこれを「共有図書館」と呼ぶ)のなかでのその本の位置を知っていることが重要なのだ。そして実際にその本を読んだことがなくても、その本について社会的にもたれているイメージ(バイヤールによれば「ヴァーチャル図書館」)について知っていれば、堂々とその本について語ることができるのだ、とバイヤールはいう。


 ポール・ヴァレリーは本をほとんど読まないと広言していた。読書は創造性を撓めるというのがその理由である。任意のページを開けば卓越した章句が姿をあらわす(つまり通読の必要がまるでない)点に、ヴァレリープルーストの偉大さを見出していた。そして大変な読書家であった(つまり創造性に欠ける)という理由で、ヴァレリーアナトール・フランスを公然と馬鹿にしていたのである。


 かの大著述家ヴァレリーがほとんど本を読まなかった!本を読まないこと。そして読まずに本について語ることについての罪悪感が大幅に軽減されること受け合いである。一読を薦めたい、と書くことは本書の論旨にに照らした時、皮肉に響くかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/binbin1956/

 しかし、ワシは創造力の塊とか、自慢するつもりはさらさらないのだが、「読んでない本について堂々と語る」って、そんなのあたりまえのことじゃないのか?本にするほどのことなのか?と思わないことはない。っていうか、修士論文書くときだって、そんなに本を読んだのかな?最近じゃないよ。修士時代だよ。専門の本なんかは、「一行に何時間かけられるかそれが問題なんだ」みたいな教育をされていたわけだから、そもそも早く読めるとかいうのは、大馬鹿野郎みたいな雰囲気があった。「一行に何時間」といったら、ある先輩は「一行に何日、いや何週間だ」と言いはなった。多分に気合いで言ったカンジだったが、気持ちは分かった。