「東大生ノート」異聞

 大学時代のゼミの先輩が亡くなったという連絡が入った。今とは違い、ゼミが学生生活の核になっている時代だった。どこの大学のどこのゼミでも、ゼミ合宿などをするのが、数少ない楽しみだった時代だと思う。うちのゼミは自主ゼミなども入れると週数回ゼミがあり、かつ毎週のように飲みに行っていた。それでも、何年かたつと年賀状を交換するだけとなってゆく。そして、亡くなったというニュースもさほど珍しいことでも亡くなってきたような気すらする。明日の夜に寮時代の仲間と会う。年四回ほど集まっている。これは奇跡に近いことだと思われてくる。
 それはともかくモデムがクラッシュしたようで、数日ネットが家で使えなくなっている。なきゃないでせいせいする。けっこう無駄な時間を過ごしていたことが分かる。ネットなどせず本でも読んだ方がよいと思うのだが、適当にサーフしないと思考が流れ出さないような気になるのが不思議だ。
で、昨日ねる前に携帯でみくしをみていたら、『東大合格生のノートはかならず美しい』に対して、「いいや、汚ねぇよ」と啖呵を切っているエントリがあった。今朝大学に来て、さがしたら加筆して、再アップされていた。「現役東大生・森田徹の今週も“かしこいフリ”」というタイトルだが、「現役東大生」というのはアホアホエロエロ系のリングネームだと思うんだが、その辺のミスマッチ感覚がなんとも言えない。

東大合格生のノートはかならず美しい』(東大ノート本)という本が15万部も売れているらしい。活字離れに金融危機が重なった出版不況の中、この数字はスゴイと言っていいだろう。
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 東大に合格する生徒のノートが美しいと聞いて「そんなバカな!」と思った筆者は、自分のノートを改めて確認した。しかし何度見ても、汚いのだ。
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 まずは東大ノート本の“揚げ足”をとることにしても、本の内容を確認しないのはやはりマズい。しかし、わざわざ買うのも面倒なので、立ち読みですますか……と考えながら“ググって”みると、文藝春秋が特設サイトを立ち上げていた。
(Business Media 誠 - 02月03日 12:01)URLは後述。

 で、私もググってみたら、すぐに見つかった。かなり親切なサイトで、さらっと読み二はいいだろうと思う。
http://www.bunshun.co.jp/toudai_note/index.html
 しかし、「汚い」ってだけじゃなく、「そもそも、東大生はあまりノートを取らない」と断じている。で、どこにはなしをもっていくか。シケぷりだったのが驚いた。w

 なぜ「東大生はあまりノートを取らない」と言い切れるのか。結論から先に言ってしまえば、本当に東大生がみんなノートを取るなり、まとめ直すなりの習慣が付いていて、それが美しければ、シケ対(試験対策委員会)のような“伝統的官僚機構”はニーズがないので存続し得ない(シケ対については河合塾の用語集(関連リンク)を読んでほしい)。簡単に言ってしまえば、授業の完璧なレジュメ「シケプリ」(試験対策プリント)を学生が分担して作る相互互助システムだ。


 さらに言えば、ノートを取るというのはインプットではなくアウトプットの過程なのだから、そんな作業に情熱を傾けるのは、以下に挙げる2タイプの数少ない学生だけだろう。


 まず、授業に出ただけで勉強した気になる勉強下手な学生である。もちろん、1から復習しなおすので恐ろしく非効率だが、この手の輩で東大に入るような人々はすべからく異常な勉強時間なので、確かに成績は悪くない。


 次に、聞いた瞬間にすべてを理解してしまって、やることがないのでノートを作るという純粋な趣味人である。これら趣味人は、級友の間では「神」とあがめられ、そのシケプリは何年にもわたって「神シケプリ」として出回るというケースもある。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=739303&media_id=40

 このあと勉強法が分類されたりしていて、そういうネタが好きな人には面白いエントリとなっている。これを読んでいてちょっと思ったのは、教える方にもいろんな人がいるということだ。山のようにプリントを配る先生もいれば、南博先生のように手帳一冊もってきて話す人もいる。作田啓一先生は、なにももたずに話されたらしい。習得させたいと思っているものも違うと思う。そういう学問スタイル、語るスタイルの引き出しをふやしてゆくのが、大学での勉強の楽しみなはずなのだが、この点で今日の講義評価は非常に窮屈なところへと学問を押し込めようとしているカンジがする。そういって悪ければ、あまりに予備校的な知が洗練され、それなりに多様化した結果、大学側もいろいろありますだけではすまなくなってきている感じがする。