トレース力

 天気がよかったので布団を干して、引っ越しの準備。とりあえず一部屋片付けて、大学に行って採点。成城大学の400枚あまりの答案をみるといやになるが、小テストと出席とあといろいろなチェックポイントがあり、けっこう早く採点が進んだ。この辺はマスプロ教育で11年間鍛えられたおかげかもしれない。あまり褒められたことではない。少しパチンコをして、帰宅してもう一部屋にかかっている。まだまだかかりそうだ。体力が回復してみると、掃除自体は苦にならない。むかしと比べて、いろいろな製品が出ていてそれも楽しみだ。って、何年掃除してねぇんだ、みたいな。w
 休憩中に読んだ松岡正剛の文章が面白かった。大澤真幸の『帝国的ナショナリズム』をめぐる随想。大澤ちゃん最近調子いーじゃん、なにより論のハコビがいい、っていう話である。

 論旨が切り立っているのは以前のことからだが、そのハコビがよくなってきた。
 能はカマエとハコビでできている。そのハコビに緩急が出てきた。そうすると読者も「移り舞」に酔える。また、能の面の動きはテル・クモル・シオル・キルに絞られているのだが、十分にゆっくりとした照りと曇りが見せられれば、突如の切り(面を左右に動かす)が格段の速度に見える。そうすると観客の心は激しく揺すられる。
 学問といえども、その70パーセントくらいは読者や観客に何を感じさせたかなのである。カマエもハコビも大事だし、テル・クモル・シオル・キルも習熟したほうがいい。ついでながら学問の残りの20パーセントは学派をどのようにつくって、それがどのように社会に応用されたかどうかということ、残りの10パーセントが独創性や前人未踏性や孤独感にかかわっている。学問はそんなものなのだから、どこで才能を発揮してもいい。


 もともと大澤真幸はかなり早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能をもっている。
 いま自分がどんな言葉をどの文脈で使おうとしているか、その言葉によって話がどういう文脈になりつつあるのか、それを聞いている者にはひょっとするとこんな印象をもったかもしれないが、それをいま訂正しながら進めるけれど、それにはいまから導入するこの用語や概念を説明なしに使うが、それはもうすこし話が進んだら説明するから待ってほしい、それで話を戻すけど‥‥というふうに、自分で言説していることをほぼ完璧にカバーできる能力に富んでいた。アタマのなかの"注意のカーソル"の動きが見えている。
 ぼくはどうもうっとりできないんですよ、「考える自分」と「感じる自分」とが同時に動いていて、その両方を観察してしまうんですよ、と大澤自身がどこかで言っていた。まさにそうなのだろう。それがいいところなのだ。
 ただし、これが文章になり論考になると、ひとつは途中挿入の知識と情報がふえて、ふたつにはその文章を読むであろうギョーカイの学者たちの顔がちらついて、さらには「てにをは」にとらわれて、せっかくの着想(感じる自分)と構想(考える自分)がわかりにくくなっていくことがあった。それが本書や『現実の向こう』では目立ってふっ切れている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1084.html

 能の話に結びつけ、論のハコビ論のように書かれているが、話のポイントは、「早口で喋っていても、その語りをもう一人の自分でトレースできる才能」というほうだろう。このトレース力というのは、読んだり書いたりする場合に重要なポイントとなることだろう。たとえば、私が雑談だらけの講義をしていても、トレース力があれば、聴き手のイライラはなくなるだろう。私がわけわかめでも、聴き手にトレース力があれば、しっかりとしたノートをとれるだろう。というより、そもそも大学の授業というのは、そのようなトレース力を磨くところではないか。
 じゃあ話す方はどうなのかというのかもしれないが、この辺は話す方に一定有利な議論がなり立つのである。つまり、大学では一定の水準のトレース力を鍛えなくてはいけないと言うことだ。例は悪いが、恋愛の気持ちを伝えるときに訥々としていても、トレース力があれば伝わる。でも、甘っちょろい独りよがりなトレース力は粉砕される運命にある。 とはいえ最近構造不況産業となってきたうちらの業界において、お客様のトレース力に迎合しないと、教員評価が得られないこともあるのである。得られないだけならいいが、大学によっては給与に反映されるということもあるようだ。
 トレース力を磨くには、たくさん本を読んで、「わかる」ということのパターンを多く知るということになるんだろうね。ただまあ、わかりにくくするトレース力もあるだろうから、話は複雑だ。
 松岡正剛の本を読めばよいわけだが、古今東西のことを広く論じていることもあり、編集の思想の革新的な部分をじっくり論じた原論のようなものは、ないとは言えないが、新書本を例外とすれば、みつけにくいのは事実だろう。これは惜しいことだと思う。とは言え、私はあまりこの人の本は読んでいない。分厚いからだ。でもこの人の考え方には大きく影響されていると思う。それは、むかし松岡とつるんでいたことがある能勢伊勢雄さんに聞き取りを行ったことと関わっている。本を読むより、能勢さんが語ったことばから、いろいろ学んだ方が大きい。これは読んでない自慢ではなく、むしろ聞き取りから学んだことを強調したいということである。