ぶりの照り煮について

 日曜日は散歩から水泳というコースになるわけだが、今日も野毛→東坂→平楽→中村橋→井土ヶ谷→平和台→権太坂保土ヶ谷公園→星川→天王町西スポーツセンターというコースを歩き、プールでクールダウンする。足に筋肉が増強されたので、坂道も苦にならないようになった。最近は階段上り下りで運動もできるようになった。階段は、パニック障害の発作を起こした場所で、私にはトラウマに近いものがあったが、完全に克服したと言えるかもしれない。実は平地ではジョギング風も採り入れている。あと十キロ体重が減ったとすれば、ランニングも不可能ではないと思う。
 帰りに高島屋で愛媛のミカンを買った。高いミカンで一つずつ袋に入っていて、「おふくろさん」という名前がついている。贅沢な話だが、数が少ないのに千円くらいするものである。しかし、愛媛とあれば、西日本にお世話になった者としては買わないわけには行かない。今年は、匠の技みたいなミカンがなかなか出てこないが、どうしたんだろうか。
 オマエのようなやつは料理自慢だけはしてはいけないと、ある有識者に教わった。自慢の仕方にもよるが、意味はわかるような気がする。私はなにもしないわけではないが、きかれた場合は、しない、できない、と答えることにしている。する、できる、というのとはほど遠い。端的に言えば、生活していないのかもしれない。
 毎年の懸案として、ゼミのはとバスツアーで東京タワーや西郷像前で写真を撮るということのほかに、私の手料理を食べる会というのがあることは、何度も話したわけだが、実現したためしがない。実はうちはけっこう料理番組を見てきた。そして今もみている。カップ一杯とか、大さじ一杯などということは、無視して、だいたいの感じでしか見ていないのだが、それでもいろいろ勉強になることはある。カボチャに砂糖をかけて、一晩おいて、しみ出してきた水だけで炊き、醤油で味をつける、なんて具合にしかみていない。そういう見方は、本を読むときなどでもけっこう重要だと思うのだが。w
こんな私が今ちょっとだけ興味を持っているのが、「照り煮」である。上沼恵美子がやっている昼の料理番組で、ぶりの照り煮というのをやっていた。このレシピが非常に合理的だと思った。塩をふっておいておくと、生臭い水が出る。それをこぼして、切り身を水で洗ってしまう。次に小麦粉をつけて焼く。これはうま味を逃がさない工夫らしい。焼いたら、小麦粉も水で洗い流してしまう。でもって、照りが出るように煮込むと、味わい深く、かつ生臭さのない照り煮ができるというのである。
 さっそくやってみた。最初は小麦粉の洗い方が足りなかったのか、なんというか、ぶりのムニエルを醤油煮にしたみたいになってしまった。これが慣れると、ビシッと決まるようになった。ぶりを下手に煮ると、家中生臭くなってしまう。
 ぶりだけでなく、青魚の煮方を失敗して、何度も涙を呑んだことがある。水煮からやってとくになにも香辛料も加えなかった生臭い鯖の照り煮を、岡山の住まいで涙ながらに食べたこともある。あの頃は家賃を払うと、給料がこれでやっていけるのだろうか、というほどしか残らなかった。まあしかし、金額を書くと、今日の労働状況では、正規雇用なら悪くないジャン、とか言われそうだが、まあ今の学部卒といっしょくらいだろうか。それでも、20台後半だったのだが、民間企業の友だちたちは大台間近、などと自慢していたのを思い出す。
同じ方法で鯖ができるかは、まだやっていない。たぶんできると思うんだが。さんまなどは、私はただの塩焼きにするよりは、小麦粉をつけてフライパンで焼いた方が美味いくらいに思っているのである。