イメージ時代と大学

 土曜日は先輩からのお声がかりがあり、なぜかマスコミ学会ご一統様飲み会に参加。飲み会だけ参加していた先輩が来られないということで、あいつなら来るンぢゃね?、というご指名を受けたとのこと。要するに、昔のサークルその他で言われた「コンパ要員」ということなのかと思う。飲み会のメンツは、私以外は全員、留学歴や海外での研究歴をもっていることがわかり、最近マイブームのノーベル賞益川ネタで、お茶を濁した。歴史学的な厳密な方法論で研究をしている人たちも多く、チャライ話ははばかられることもあったが、最近日本でもハロウィンがアツくなりはじめているという話題など、エートスはいっしょなのだな、とか、アホなことを、ほよよ、と考えていた。
 定額給付金というのが話題になっている。なんかなぁ、世も末みたいなイメージが浮かんで仕方がない。選挙で誰に入れたらウケるかとかいうアホなことしか考えないアテクシだけならともかく、55年体制成立以来と言ってもよい自民党支持者であるうちの親なども、「ばらまき」のパロディみたいだ、というようなことを言っていた。もちろん、子供の多い人や高齢者の人には、けっこう意味のあるものなのかもしれないとは思う。これで、浅草の250円弁当はいくつ買えるのだろうとも思う。その個数は、食いつなげる日数という人もいるわけだから。
 ただ、てやんでぇべらぼうめ、いらねぇよ、と言う人もいるだろう。某企業が問題起こして、500円ずつキャッシュバックみたいなのするけど、いらない人はサービスの向上に役立てますみたいなことがあった。それといっしょで、いらないって人がいたら、ちゃんと福祉や年金の枠組み構築に使いますみたいなことになるなら、いらないっていうふうに言いたい人も少なくないんじゃないかなぁと思う。アテクシなどは、さして裕福でもないのに大人買いや、チロルチョコ箱買いや、パチンコなどをやって、日常的に身近な景気対策をボランティアでしている。そんな景気対策するなら、お上にまともなことにつかってもらった方がいいようにも思っている。けっして皮肉ではなく、本気の仕事をしている公務員の人たちに、タクシーチケットをあげるみたいにつかってもらってもいい。
 ヘロヘロになっている身体に、ニンニク注射くらいの景気対策効果があればいいし、元気溌剌リポビタンD!ファイト一発なイメージ効果があれば政治的な意味もあるのだろう。まあただ、それで選挙というわけじゃないとは思う。消費税アップと言っているわけだし。税率アップのネオリベという、シュールなセンを狙っているとは思わないけど。
 しかし、最近の選挙とかイメージ作戦は、馬路かよ、というようなものも少なくない。5年間の拷問に耐えきった真のヒーローとシュワちゃんが持ち上げるマケイン候補の起死回生が、配管工のジョーというのは、まあ日本のメディアが面白がって報道しているだけのところもあるのかもしれないが、なんとなくむかしの都知事選で毛むくじゃらのベアなちょっと気障ですが、の人が、銭湯で風呂はいったのとか、あるいは官僚出身の有名候補が下町で御輿をかついでスゴイとほほな形相だったのとか、思い出してしまう。手垢がついた「イメージの時代」ということばを思い出したりもする。
 少子化の時代の大学も、イメージ戦略は大事なものになっている。そんなものは不要な、強烈なイメージを持った大学もある。伝統校は、みなそうだと言ってもいい。たとえば英語であまりにも有名な某女子大は、都心の千駄ヶ谷にあった建物を「千駄ヶ谷キャンパス」にして、知的なイメージのする看板を掲げた。電車のなかにも、「千駄ヶ谷キャンパス」と大きなロゴのポスターを掲示し、文字情報で講座をならべるだけで、インパクトのあるイメージ戦略になっている。やるもんだなぁ、と感心するとともに、東京体育館に泳ぎに行くたびに、看板を見あげ、伝わってくるアウラに、なんかここで勉強してみたいなぁ、などと思う自分に気づき、正直むかついたりもしている。
 それはまあ冗談で、プロの都会的な仕事だなぁ、と敬意をもっていつも看板をみている。建物の外観も非常に知的だし、基本が文字情報というのが、スゴイと思う。ロゴだけ見ているとたいしてオサレではないのだ。「田舎くさい」コマーシャルというと、痛いCFとか、そんなのばかり思い浮かべるのかもしれないが、そうじゃない。東京のオサレへの憧憬と模倣が充溢しているようなものが、なんかとても「田舎くさい」ものとして感じられる。サントリーの「夜が来る」みたいなやつとか、JRの「そうだ京都に行こう」みたいな、なんとなく都会のオサレな映像をつくってみたい気持ちだけが、独りよがりに走っているようなものが、地方のCFには、ままみられる。
 著書『無知の涙』で知られる「連続射殺魔」NNを分析した見田宗介の「まなざしの地獄」で、生き直すために上京したNNは、スーツに身を固めて、銀座を歩く。東京の若者たちは、カジュアルな服装にセーターをはおって銀座を歩いている。NNは、救いようもないみじめさを心の底に滞積させてゆく。しかし、それもNNの感受性のなせる技なのかも知れない。ビシッとキメた自分を、いけていると、心に小指をたてて生き抜く人もいる。それはそれで非常に勁い人だとは思う。
 問題は、陳腐なオサレを消費させれられてしまうことだ。「田舎」の焦りがあると、脅迫的に流行を追いかける。茶髪が流行れば年齢その他関係なく茶髪にする。なにかがが流行れば、ビシッと揃える。流行らなくなったら、捨ててしまう。いじましくつかっている奴をバカにする。そんな焦燥を食い物にする商売人もいる。大学だって例外ではない。新設の大学ができると、このくらいは大学のデフォルト、揃えておかなくっちゃイメージ悪いっすよと、図書まとめて在庫一掃の商売をしに来る業者さんもいる。
 田園地域の農村に聞き取りにいったときに、老若男女茶髪にしていたのは、ぶっ飛んだ。ただそこで感心したのは、流行っているからばあちゃんもやっちまったよ、みたいなノリがあったことで、この体験は、非常にしぶとい根っこを感じるものがあった。その辺の勘所をどう表現するかが、それ以来の主題になっていると言ってもよいかも知れない。若者文化やサブカルチャーを見るときも、常にそう言う眼で見ようと努力してきた。しかし、なかなかエッジが立った成果を出せないでいる。
 でも、それはそれでよいのかも知れないとも思っている。エッジの立たせようのないものもあるのだ。自分と比べては申し訳ないが、私が勤務する東京女子大学もなかなかエッジの立ったコピー化が難しい大学だ。乱暴な比較だが、京都の老舗の料亭をエッジの立ったコピー化するのは、難しいというのと似ているようにも思う。まあせいぜい、「ささやき女将もビックリ!」とか、悪い冗談くらいしか思いつかないし。裏通りにある小さなお店みたいところも、コピー化しにくいと思う。昔、学生が「隠れ家のような店」と言ったので、さんざんからかった覚えがある。うちの大学が、コピー化しにくいのも同じようなイイ意味での曖昧さがあるからなのかなぁと思う。卒業生の人たちは、それをよく知っているから、「西荻の隠れ家」みたいなコピーを絶対許さない。というか、最初のゼミ生たちなどは、敢えてしないところに良さがあるとも言っていた。
 しかし、それでは埒があかないのが今の世の中だ。ドラマの「おせん」の店も、経営が難しくなっていた。あのドラマは、そのまま文明批判でもあったのだろうと思っている。それはともかく、うちの大学だが、あえてことばや映像というビークルにどうのせるかと考えると、頭を抱えてしまう。授業期間中の昼間に見学に来て、授業時間中とお昼休みの学食とを比べてみると良さがわかると、何度も書いた。大学の風景やそこに学ぶ人の姿は、味わい深い。
 それを伝える努力をされている人々には、頭の下がる思いだ。さぞかし大変だろうと思う。パンフレットだったか、あるいは卒業アルバムだったか忘れたが、窓越しに授業の風景を写した一枚の写真があった。教室の中のみんなが、黒板の方向にまなざしを注いでいる。お!と思った。人数は少なかったのが残念だった。遠くから、ピーピングっぽくはなるが、多くの人数を撮ったらどうだっただろう、などと思う。ある先生は、授業風景とともに、通学風景が忘れられないとおっしゃっていた。他の人と混ざっていても、うちの学生はすぐにわかるともおっしゃっていた。まあ時代は違うなぁとも思うが、おっしゃっていたことは理解できた。食堂なんかも、同じようにすれば、穏やかないい食事風景がみえてくるかなぁ、などとも思った。ただ、その隅っこのほうで、アテクシが腹を空かしたワンちゃんのようにフレッセン(ドイツ語)しているのが、ちょこっと写っていたら、最悪だとも思った。