伊奈正人著『卒論・レポートちょいワルコピペ術』

 カミラーだとか、学生にくそみそに言われたので、根が努力家のボクは最近毎日、滑舌をよくする訓練をしている。まず喉をたてに開く訓練なんだが、頭声になるみたいな腹式発声をしてみたり、あとカラオケ教室なんかでやっている、奥歯に割り箸噛んで声を出す訓練をしたりしている。これでも昔は300人くらいの大教室で、マイクなしで講義をやっていたこともあるので、ゆっくり話せば、まあそれなりの声は出るのである。しかし、ついつい早口になると、たちまち噛んでいる。そうなると学生はたちまち爆睡はじめるのが出る。1時間目、しかも学園祭シーズンである。忙しい人もいるだろう。もう必死になって目を開けていて、力尽きて机の上にうっぷすみたいなのがいて、まあけなげなことである。しかし、辰吉やるのかよ。ぶっとんだ。

 26日にタイ・バンコクで5年ぶりの復帰戦を予定している元WBC世界バンタム級王者・辰吉丈一郎(38=大阪帝拳)が21日、大阪市内のジムで練習を打ち上げた。スパーリングは17日までに終えており、1時間半の調整はミット打ちなど軽めの内容。「後は向こうで調整するだけ。対戦相手のことは何も聞いてないけど、殴れたら誰でもええ。ボクシングさえできたら」と述べた。
 試合開催は微妙とみられていたが、21日にタイのコミッションが辰吉の出場を許可した。17日にタイ側から照会を受けた日本ボクシングコミッションJBC)は大阪帝拳ジムが健康面を懸念している現状などを回答。しかし、辰吉が身体面の問題はないとする診断書を提出していることや、すでにチケットを売り出しているなど試合中止に伴う金銭面の損害を考慮したという。22日にタイへ出発する予定の辰吉は「できるから行くんや。ダメと言われたら無理やん」と上機嫌に話した。[2008年10月22日]
http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2008/10/22/03.html

 世界チャンプになって児島の母校に帰って挨拶したときは、五輪の柔道石井慧ちゃんみたいなやんちゃかんじだったのが、なんかスゴイ雰囲気出しているとは思うよね。
 で、このエントリのタイトルのことだが、そんな本なんて、だすわきゃねぇだろ!!わはははははは。φ(._.φ(゚-゚;φ(._.φ(゚-゚;φ(._.φ(゚-゚;)メモメモしたのがいたら、大笑いだけどな。 出すならハウツー本じゃなく、お遊び本みたいなのとして出したら、と思ってみたりもするが、それは今や感覚的には古いんだろうね。
 それはともかくである。学生と話していて、なんでコピペがいけないかがわかっていない人をよくみかける。10年くらい前に、一生懸命表現をかえながら、本を写していたのがいた。たぶんこれはコピペより数段マシだろうと思う人がけっこういるようなのだが、ある意味前者のほうが悪いかも知れないのだ。表現をかえても、ある論述がその著者のオリジナリティ爆裂なもんだったら、表現をかえても、著作権侵害だろう。他方、「誰々は次のように言っている」、などと明記して、コピペをそのあとに貼ったら、学術論文的には、あまりよくないにしても、ギリギリセーフかも知れない。しかしレポートに、ウィキペディアによれば、みたいなかんじで、「 」の嵐だったらムカツクだろうけどね。そーいや、教師に成り立ての頃、アフォな椰子が、レポートの最初と最後に「 」を書いて、あとマル写しというのがいて、落としたことあったなぁ。w
 もちろんハピキャンみたいなので、丸ごとパックマンは、明らかな不正行為だからダメ。
 だけど、どこまでだったらいいんだろうね。文献目録なんてものは、誰がつくったって同じだから、同じ分野の電子ジャーナルから、いくつかコピペって編集すれば、かなりの労力の軽減にはなると思う。これだと、エンドノートにリスト取り込んで、必要なのをワードに流し込むのと、大差ないような気もする。
 次に、古典の頻繁に引用されるところとか、名作論文とかのキメのところとか、引用の多いものとかを、三年次からゼミ報告の電子文書共有しておいて、あとでピペったり、あるいはネット上で、『論文マテリアル社会学』みたいな共有サイトつくって、サクサク引用しながら、論文書くのはまずいのかね。マルエン全集ならば電子版あるし、レキシコン組み合わせれば、かなり労力の軽減にはなるだろう。w つまり地の文は自分で書くなら、コツコツ打ち込むことにさほどの意味はないという意見もあるだろうとは思う。
 こうしたマテリアルを引用編とすれば、論理構成編、論理展開編みたいなフレームを、昔よくあったイラスト集、カット集みたいなのとか、パソコンの部品集みたいなものみたいに集めたサイトがあって、そこにサクサク穴埋めみたいにするだけで、レポートができあがっちゃうみたいなのはどうだろう。私的には、これはダメだと思っているんだけど、そうでもないという人もいるんだろうか。はてなのスキンみたいに、ワンクリックで仕様がかわったら笑うけどね。
 ただ前にも言ったけど、とりあえずそういうのを1回コピペしまくって、作り上げて、それを複雑に組みかえてゆくことで、自分なりの文脈が練れてくる場合も否定できないのだ。それはやむを得ない気はする。
 しかしである。調査をして、聞き取りをしたり、質問紙をつくったりしていると、思考が同じように練れてくる。さらに、テープ起こしをしたり、データー処理をしたりしているとさらに練れてくる。文献資料だって同じことなのだ。この思考プロセスみたいなのが、基本の基本で、その補助手段として、電子ジャーナルやいろんなものをちゃくっとつかって、ある程度の鳥瞰を得ることは、悪いことではないとは思う。その場合、教師がきちっといい悪いを点検してくれるかどうかによって、またイイ悪いは分かれるかも知れない。 引用しないでも、筆がぐんぐん進むというのではないという立場もあるだろうし、引用をして語らしめるという立場もあるだろう。でも基本は、何を得て、そして何が得られずに卒業していくかを誤魔化さずに直視していることと、あとは人の著作権を侵害しないということだろうと思う。最低限のモラルとして、人の見解や知見を自分のものとして書くのは絶対ダメだということだけははっきりしている。