秋葉原の事件について

 秋葉原の事件は驚いた。まずなくなったかたのご冥福をお祈りしたい。調査実習を秋葉原でやってみようかなどと思い始めていたのだが、ちょっと逡巡している。ゼミで話したら、「じゃあ池袋は」という話があり、あそこも通り魔があったところだなどという話になった。「じゃあ中野は」などと話は尽きないが、そういう問題ではないのかもしれない。つまり、ご家庭のほうの不安感が問題なのである。アキバを卒論テーマに選んだ人がいるが、どうするのだろうかなどとも思った。この人は、サブカルタウンとして生まれ変わりつつある歌舞伎町をと思っていたのが、親御さんにそれはちょっと・・・と言われ、主題を変更したのだ。まあフィールドが変わっただけのことではあるが。
 しかし、鮮やかなまでのドラマ性を湛えた事件である。元秀才、派遣社員。おとなしいがキレやすい。作業着がなくてクビになったと思った短絡。二次元世界に夢中。オタク。美少女キャラに萌え萌え。カラオケはアニソン。ネットへの書き込み。そして、決行は池田の事件の日。酒鬼薔薇と同じ年齢。ねらい澄ましたように「ネタ」は揃いすぎている。いわゆる宅間記念日に10年後の酒鬼薔薇が通り魔などと、語られてゆくことになるだろう。思い出すのは、ある政治運動家がオウム事件の時に語った言葉である。ある原稿に書いたことだが、備忘的に引用しておく。

 ある元政治運動家は次のように「気分の悪さ」を語った。「イデオロギーの時代の学生運動、労働運動、政治運動は、体制への対抗勢力として確固たるリアリティを私たちに提示した。たとえそれが、暴力事件や殺人事件を起こしても、革命という大義によって正当化されていた。犯罪行為にも、政治犯という名誉が与えられていた。自己を戯画化することもあったが、なんらかの真実をもとめていた。オウムには、そうしたもの一切を茶化して壊してしまうようなパンクな破壊力を感じた」と。
 彼以外にも、自分が生きてきた会社や学校という秩序への浸水に冷や水をかけられたように感じた人はいると思う。自分たちの生きている現実は、絵空事の仮想にすぎないかもしれないという疑念を感じた人もいるかもしれない。テレビで弁舌さわやかに理路整然と言い分を語る教団幹部の姿は、マンガチックであったけれども、奇妙な説得力と破壊力があった。
 この時期に、大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)はじめ、見沢知廉の『天皇ごっこ』(新潮文庫)に言及したオウム論を散見した。「宗教ごっこ」も「学校ごっこ」も「会社ごっこ」も、所詮「ごっこ」にすぎない。しかし「ごっこ」だからこそ夢中になることもある。「遊びだからやめられない」のかもしれない。そして遊びめかしたカルさで、「ごっこ」はちょっとした心のすきまにやすやすと入ってくる。オウム事件でもディベート術に長けた教団幹部の姿は、多くの「遊び心」を魅了し、教団の集会はチョーノリノリの若い「追っかけ」たちでいっぱいになった。
(『生と死の現在』より)

 「聖なる儀式」によって全知全能を証明するときに、人命の尊さのかけがえのなさは、最も便利な道具となる。宗教しかり、政治しかり、犯罪しかり。彼は神話になれるのだろうか。英雄になれるのだろうか。短絡と嗤いたいけれども、自分は随分ずるく妥協し、ずるく努力してきたなぁと思わないことはない。そして、自分を甘やかすようだが、ずるくあきらめるのも大事なことだと、月並みなことを思う。多少登りつめた人間にとってみれば、無念のほどは計り知れない。一番になんかなれなくてよかったなぁと思わないこともない。ヘキサゴンとアホキャラは考え抜かれた企画なのかもしれない。
 スザンヌにもわかる、というコピーの横でスザンヌがにっこり笑っている車内広告がやたらと目をひく。CHANGEを見ていて、アレを思いだした。つまりは、「スザンヌにもわかる日本政治」。ドラマへのスノッブな批判をあざ笑うかのように、ドラマはシンプルに痛快に展開してゆく。華麗なるで共演したおっさんが、さっそくキムタコのファンになってしまったのが、笑えたけど、笑いつつ、けっこうグッとくる部分がなかったとは言えない。