入試問題と著作権

 まあ、ごくせんで話題、マニア垂涎、毎週爆笑チェキという「大根役者君ぶり」が誰のことなのかわからず、有識者に教えを請うも、バカにされて教えてもらえないアテクシのような、演技のえのじもわからんちんな人間が、舞台云々は議論すべきことでもないわけであるけれども、相棒がスマッシュヒットの寺脇康文が「恐竜と隣人のポルカ」という舞台をするということで話題になっているようだ。舞台は特に関心がないのだが、この舞台は左卜全とひまわり シスターズの「老人と子供たち・・・」にかけているかどうか、についてはちょっと関心がある。調べてみたのだが、よくわからない。いきなり、「ズビズバ〜パパパヤ」ではじまって、「やめてけ〜れ、ゲバ、ゲバ」と当時のゲバルト学生をパンクしたのも記憶に新しい。
 前から問題になっている入試問題過去問集などにおける著作権の問題が、またネットでにゅうすになっていた。ニコ動とかもそうなんだが、前もって金とるとかはけっこう有効な方法だろうとは思っている。方法論は、まあいろいろあるが、各動画サイト共通のパスポートなんかをつくってくれるとありがたい。でも、金持った奴しかうぷだうんできないとすれば、激盛り下がるんだろうね。入試のほうは、拒否っている人が、過去問集とか予備校とかは逝ってよし、ということなのか、それともきちんと制度を作れということなのかによって違うだろう。後者ならば、著作税上乗せとか広く薄く受益者負担とかにすればいいと思うんだが、受験生の人にとってみれば、そんな提案は腹立たしいだろうね。あとは、補助金と、オダイジンのスポンサーシップだとか、なんか発想が貧困な自分の、じっと手を見る、ってカンジであります。
 同業者では、入試に採り上げられたとか、国語の教科書に載ったとかゆうのは、一ランク上の自慢話になっていることもある。まあ、受験生ほど熱心に文書を読んでくれる人はいないんだろうし、ということは、喜んでいる人たちの気持ちとしてあるようだ。読み方をレクチャーしたいくらいということもあるらしい。金子郁容の『ボランティア』(岩波新書)風に言えば、「文章を使ってやっている」という交換関係なんだろうけど、著作権の問題だけは、そうもいかない。
 自分が問題をつくる立場になったとか、これからなるかも知れないとか、そういうことは、守秘義務で絶対にコメントできないわけだが、つくることになったら神経使うだろうね。というか、大学のほうもすごく神経を使っているようだ。生来アバウトな私としては、めんどくさい時代になったなぁと思う。
 ここで久しぶりに思い出したのは、亀井孝先生のこと。この人は、ものすごい文体をもっていた人で、一部読書家にとってみれば、忘れられない存在であろう。それは、オノマトペを論じた朝日選書の『お馬ひんひん』という本の題名だけ見ても一目瞭然だということは、前にも話したことがある。これも話したことだけど、この人は、一時期受験界には忘れられない存在となっていた。なぜか?原稿を書くと、後輩や友人に音読してきかせることもあったというこの先生は、自分の書いた文章を入試に出してしまったのである。これは問題になって、校長会などから文句がついて、抗議文まで届いた。そしたら、次年度に抗議文を出題して、日本語として問題にするみたいな設問をつくったという猛者なのである。今だったら、炎上どころの騒ぎではないが、それでも有無を言わせないほど、この先生の学識がすごいこと、学問的な誠実で貫かれた学問をされた人であるは、著作集をみればわかる。何巻本もの大著で、日本語の起源について、論じたあとに、起源はわからないと結論していたこと、その見地から授業でタミル語起源説を徹底的に批判されていたことなどは鮮烈な印象になっている。
 余談だが、「この歳になると、本をずいぶんもらえるようになるけれども、学生時代身銭を切って買って読んだ本に比べれば、まったく価値のないものだと言っても言いすぎではない。今のうちに無理してでも買って本を読んでおきなさい」ということばは、いまだにリアルに思い出される。そして、卒論などで、貸してクレクレ君とか、相談シテシテ君たちの性根をたたき直すことからはじめなければならない現状を見ると、暗澹たる気分になる。いたれりつくせりの受験産業の恩恵を得るとそうなってしまうのはわかる。となると、国語で多少の不便があることも、けっこういい勉強になるんじゃないかなぁと思わないこともなかったりする。ただし、赤本の会社は、学術界にとって、貴重な存在だから、是非とも特恵的な待遇にしてほしい気はする。けっして、編集者に言わされているわけではない。w