おやぢギャグの精神

おやぢギャグと言えば、だじゃれおやぢぎゃぐとひとくくりにされるようなものであり、部下に「かちょぉ〜、スーツ新調っすか、春らしくていいっすね。若々しいというか」などと言われて、「私はアンチエイジングゥ〜!グゥグゥグゥぐぅ!ぐぉおおおお」とか、軽やかなステップでやってしまって、だだ滑り、「エドはるみっすね。ナイス(内心=救いようがねぇなぁこのぢぢい)」みたいな類のもんだと思う。エドはるみくらいくり返せばシュールだけど、一回でてへへへへぢゃあ、救いようがないというか、
 「ははははは」と自分ウケしまくって「笑いすぎたあとふと気が抜けて指でもてあそぶビールグラス」(豊島たづみ「とまどいトワイライト」をモチーフに)と、おやぢは黙って背中で語る。おやぢはだまってキリンラガー、みたいなエレジーもあるんだろう。
 それにしても、小池栄子西田敏行のCFは実にパワフルでリアルだ。「もうついて行けないっす」みたいにいわせているポスターも味わい深い。いいでわないか、にんげんだものとか、ことばにしてしまうことには、かなりの抵抗はあるわけだけれども。
 一発ギャグが流行ると旬のうちにさっそく用いてみるとか、おやぢはだまっておやぢギャグみたいに無難な定型的なコンテクストに甘んじるとか、そういうことはけっこうある。多少の功名心があると、オタクっぽい凶暴性で主張が入ってきたり、新しいものを競い合うことになる。愚劣と言えば愚劣だが、学問でも何でもそういうところはある。
 昨日読んだ新著に書いてあったことを次の日に話す。読んだ本についつい引きずられてものを書いてしまう。自分でもわかっているのだが、自制が効かないことがある。私の場合、めちゃめちゃ自制が効かない。すぐ影響される。ジャルゴンやロジックや言い回しを軽薄に使う。つーかここでも、ジャーゴンと言えばいいのに少し前に読んだ本にこう書いてあったからこうかいてしまうみたいなこともそうだよな。w あるいは読んでもいない本をならべたてて、自分を飾り立てることもあった。今でも思い出すことが二つある。
 一つは、院生時代の投稿論文と廣松渉である。あるゼミではへろまつは、事実上禁書あつかいみたいなところがあった。しかしまあ、ちょっとチャライ雑誌などを読んでいますと、どうしても読みたくなるわけで、読むわけですよ。私の知力では字面くらいしかわからない。そうなると、もう論文やレジュメが漢語フルスロットルになる。情けないくらいこなれていない文章になる。論文を書き上げて、投稿したら、査読者に「紋切り型の語句がならんでいるのはあまりにも愚劣である」と書かれた。説明的にぐちゃぐちゃ紋切り型のことばをならべるのではなく、瞬殺するようなことばを使うべし。このあと、富岡多恵子の『室生犀星』を読んで、例の「つち澄みうるおい」の話などを読み、あるいは阿部謹也の良知力追悼回想の文章を読み、鼻くそをほじりながら、うまがらないとか、うたいすぎないとか、再びたどたどしいモンキリ型でなっとくしつつも、チェックする知恵をだんだんと身につけていった。と言いつつ、鼻くそをほじり・・・などと書いてしまうもわろし、だよな。w

富岡多恵子集〈9〉評論(3)

富岡多恵子集〈9〉評論(3)

 もう一つは、今は立命館大学にいるOさんに指摘してもらったこと。D2の時に、いっしょに学生の聞き取り調査をした。その報告書をまとめた時のことだ。M2の時に、勉強ばかりしていたことがアホらしくなり、二年以上放蕩三昧してへろへろになっていた。人を威圧するために、知識や論理をならべたてるだけでは解決できない問題があるとか、気障に思い詰めて、精神状態はかなり悪く、しかし、人に依存したり、相談したりするようなことはしても仕方ないと思っていた。この頃はじめて知識欲のためではない、対話的な読書が大事だという気になった。まあただ、文学書のレトリックやイメージで、自分を甘やかしていただけかもしれないのだが。私は教養が安普請で、確固とした自己がないといこともあるのだが、たちまち酩酊し、影響された文章を書くようになった。で、報告書も書いたわけだが、Oさんは「最近小林秀雄の『モーツアルト』読まなかった?」とコメントした。正直凹んだが、いいことを言ってもらったと思う。
 そんなこんなでコンプレックスがマグマのように体内を流れて久しいのだけれども、辰野隆『忘れ得ぬ人々』を読んだときに、若干なにかが変わった気がした。この本全体が安普請の教養を質すのに適した文体で書かれているのだが、中学の級友だった谷崎潤一郎について書いた文章がとりわけ印象に残っている。学校の学内誌などから谷崎の文章が各種引用され、中学の頃から約束されていた将来について紹介されている。引用されている文章・詩句は、馬路やばい、ありえないようなものだ。
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 しかし、それだけではない。辰野は、やばいッス、あり得ないッス、というだけではなく、この文章は明らかに「たけくらべ」他の影響を受けているとか、これを書いた背景にはかくかくしかじかの読書があったはずだとか、的確に言い添えている。また、日露戦争の時代に影響された文章なども引用している。しかしけれどもだけれども、つきることなくとめどなく流れ出す文章の泉がそこにはあった、というようなことを言っている。
 学生の答案や卒論を読んでいても同じことを感じる。調査したりという部分をのぞけば、大なり小なり本を読んで勉強した結果が、答案や卒論だろう。どんなに整っていても、とりすましていても、面白くないものは面白くない。軽薄でも、嫌みでも、気障でも、面白いものは面白い。猥褻や盗作も部分的なあら探しでは、失われるもののほうが大きいだろう。
 ここに書き付けたのは、備忘としてであり、そんなものの考え方もあると言うことを確認したかっただけのことである。型どおりをこなしていて、年月を重ねることで、ようやく噴き出す泉もあるわけだから、型どおりを教えることのほうが大事なのだろうとも思っている。泉探しの地獄と書けば、再び問題は自分探しや生きづらさに回帰する。型どおりを味わい深くできるように訓練することのほうがずっと大事かもしれない。竜ちゃんが言えば、そんなの関係ねぇも、味わい深いだろうし、ちょっとした「間」でオヤジギャグも激笑える。問題は、オヤジギャグだからダメ、紋切り型だからダメ、影響されたパクリだからだめ、ということでもねぇんじゃないだろうか、つぅことだべ。型どおりにダメとくりかえすのは、自分の優越心を癒してくれるような型どおりに安住することになっちまうんじゃないかなぁ。というのも安普請の教養、あるいはケアレスミスの多い自分を甘やかしているだけなのかもしれないけどね。