R-1ぐらんぷり

 エド・はるみのだじゃれまがいのわけわかめノリノリパフォーマンスがばかに面白いと思ってしまうのは、昭和な人たちの性なのだろうかと、苦笑する面もあるのだが、いろんな枠組を潜在させている面白さだとか、主張してみたくならないこともない。でも、今は、とりあえず単純化して「ビートたけし→コマネチ」という変換を行う枠組において、知名度拡大ということなんだろうな。しかし、エド・はるみの「私はアンチエイジング♪」などというフレーズを聴いていると、これってトニー谷の「あなたのお名前なんてぇの」@アベック歌合戦を思い出してしまったりする。そのうちツイストでやり出して、かけあいとかするようになったら、まじ確信犯だろうが、それも一つの枠組かもしれない。
 まあ、R-1で誰が勝ったかみたいなことは、さほど感心がなく、むしろC-1で、エド・はるみ鳥居みゆきが決選投票になり、鳥居みゆきが勝利したというほうが、興味があるくらいなわけだが、その鳥居にしても、いろいろみてみるならば、数子にあるようなやばさはそげ落ちて、ヒットエンドランに回収されてしまいそうであり、また、エド・はるみにしても、グーググーがやたら流行って、ジエンドみたいなことはないのか、とか思ってしまったりするのである。魅せる枠組というか、引き出しというか、そういうものをたくさんもっていて、自在にパフォーマンスできるみたいなことが大事だろうし、テレビ番組のほうも、そういう「お題」提示みたいにしてあると、レッドカーペットとか、あるある何様とか、面白いことになるみたいなところがあるんだろうなとは、思っていた。でも上手く言えなかったわけだが、R-1の総括がけっこう面白かったのでclipしておく。

 この『R-1ぐらんぷり』、タイトルの「R」はもともと落語を指していたが、大会規定によれば、落語に限らず「とにかく面白い1人話芸」を披露するのがルールとなっている。そのため、ネタのバリエーションは多種多様。フリップネタ、モノボケ、キャラネタ、あるあるネタ、ショートコント、漫談といった具合に、「スタイルの見本市」としても楽しめるところがこの大会の醍醐味(だいごみ)だ。決勝戦では、各々が4分以内でネタを披露する。2008年はどんな顔ぶれがそろったのだろうか。
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 今年の『R-1ぐらんぷり』は、全体を通して、大会規定の4分という尺を長く感じた人も多かったのではないだろうか。というのも、2007年『爆笑レッドカーペット』が登場して以降、テレビでは1〜2分で完結するショートスタイルのお笑いが主流になっているためだ。今回のラインナップを見ても、それぞれが短いネタを複数組み合わせていたことに気がつく。
 なだぎ、芋洗坂、ナベアツ、鳥居、山田、中山のネタは、エッセンスだけを凝縮すれば1分のスタイルでも十分に通用するものだった。4分である必然性に乏しく、大会用に無理矢理引き伸ばした感が否めない。番組としてのパッケージを考えれば、芸人に一番面白い部分だけを演じさせて、次から次へと交代させる『レッドカーペット』のほうが確実に時代にマッチしているといえるだろう(実際、放送時間が違うとはいえ、『R-1』と『レッドカーペット』は同日に放送され、視聴率は関東地区でそれぞれ8.3%、19.4%だった)。
 「レッドカーペット」とは名ばかりで、実はその機能に目を向ければ大量生産・大量消費を象徴する「ベルトコンベア」になっているというのが皮肉だが、そんな『爆笑レッドカーペット』の短いネタをベルトコンベアでつないでいくという編集能力の高さこそが、いま芸人にとって最も険しい障壁となっている。つまり、芸人が長いネタを披露しようとすれば、自らの力で「ベルトコンベア」に相当する仕掛けを用意する必要がある。例えるなら、ネタが1〜2分の『レッドカーペット』では、いい野菜を作りさえすればいいのに、4分の『R-1』になると、いい野菜を作ったうえに、切って炒めて盛りつけて、後片付けまでしなければならない。そのハードルの高さは推して知るべしだ。
 『R-1ぐらんぷり』の決勝に残った面々は、素材が抜群に優れていることは既に実証済み。あとはその素材をどのように料理するかという編集力の勝負になってくる。今回、なだぎや芋洗坂が編集者としても優秀だったのは、こまぎれの笑いをつなぐための接着剤として、「文化祭の出し物を考える学生」、「サラリーマンの余興」といったテーマを持たせたことである。2人に共通するのは「メタな視点」。自分の一番面白い部分を客観的に編集して、分かりやすい形で提供していたこの2人が1位・2位の座に輝いたのは、決して偶然ではないはずだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080223-00000027-nkbp_tren-ent

イロモネアの柳原可奈子などをみていても、こういうことはより強く思う。というか、ウッチャンの番組に、その辺を意図したようなものがいろいろみられるのは、本人の意図ばかりじゃないだろうが、一定の意味はあるのかもしれない。