入学試験を終わって

 病院で定期検診をした帰りに本屋でセネットの近著を立ち読みしていたら、面白くなって、買って帰って一気に読んだ。読後にため息をつく。環境問題に深刻な危機感を持ち、現代資本主義論みたいなことを考えてみようと学問を始めたはずなのに、右往左往してきてしまったなぁと思う。しかし、加速度がついてとまらなくなったような現状を打開するような、そしてその打開がさらに多くの不幸や対立を生み出さないような、必要以上の我慢を強いないような社会のグランドデザインを考えることは可能なのだろうか?資本主義は、恐ろしく巧妙な反転の仕掛けだ。それを多少なりとも理論的に考えようとしたこともあった。今は、たとえば「博打がないと生きていけないような人」みたいな具体像でものを考えるようになった。
 うだうだして、仕事のあとは仕事だぜと仕事人をしたら、9連ちゃんで10000発ちょっと。久々の勝利。それから泳いだが、今日は時間短め、距離短め、スピード早めみしてみた。と、多少体重が多い。やはり、三時間歩いて一時間泳ぐくらいのほうが、ゆっくりでもいいんじゃないだろうか。
 合格発表が終わり、一通り掲示板などをみた。補欠で待たれている方は不安で一杯のようだ。教育職員の一人として言葉もない。私たちはすごく真剣に長い時間をかけて議論をして、結果を決めた。
 受験生の人は、やはり偏差値を高くするとか、レベルの高い人を入学させるということにまず目がいくようだ。実は大学側の視点は若干違うのである。もちろん水準は高い方がいいだろう。しかし、偏差値を上げるだけなら、方法は他にもある。偏差値は合格者偏差値なのだからレベルの高い人に受けてもらえばいいのである。もちろんそんなことをする大学はないだろう。東大受験組一人受けてくれたらキックバック・・・なんて、たちまち週刊誌ネタだろうし。
 ただ、入学試験の得点が高い=偏差値が高いということではないだろう。運とかヤマとかいうこととは別に、入試問題はこういう人が欲しいというメッセージであるわけだし、それはたぶん偏差値的な意味あいとはちょっと異なるんじゃないかと私は思う。いろいろな意味でのレベルの高い=イイ学生が欲しいということはあるんじゃないか。一発勝負というよりはコンスタントにいい成績を上げる人は推薦、平均的な成績はともかく特定科目が得意であるとか、あるいは主題性をもった学びを高校時代にした人はAO等々。面接した人で優秀な成績をあげ、立派な卒業研究を仕上げて卒業していった人も数多い。
 最大の原則は実はまったく別のところにあると言ってもいいだろう。そして、それはどこの大学も同じだと思う。それはなにか?定員割れしないように、そして定員オーバーしないようにということだ。国立大学の場合、定員割れだけではなく、オーバーも大学のマイナスポイントになるようだ。なぜそうなのか?それは適正な教育環境を保つためである。大きな大学の場合、ゼミは必修でなく、ゼミを履修せずとも授業の単位を満たせば卒業できるようなところもある。それなら、多少人数が多くても、ゼミの人数は適正に保たれる。しかし、大きい大学でも定員オーバーは気にしていると思う。
 最近の授業は、予習復習などが必要なものへと方向づけられているところがあるからである。たとえば、コメントペーパーに丁寧なコメントをつけて返す先生がいる。さらに事後指導をする。こういうきめ細かい指導をするのには、適正規模というのはあるわけだ。私のようなマスプロ教育的なものにどっぷりつかった者ですら、卒論指導を考えると、ゼミは一人でも少ない方がいい。まして、すべての卒論を紙面が朱筆で真っ赤になるくらい丁寧に添削するような先生の場合はなおさらだろう。