赤い鳥の紙風船

 本日はクリスマス・イブである。毎年思い出すのは、バブル期にお食事、宿泊パックという考えてみるとわけわかめな商品開発をホテル業界が開発し、けっこう繁盛していたことだ。不幸な顛末になって愚痴をこぼしに来た貧乏学生が握りしめていたチケツを思い出す。高度成長期のキャバレーのクリスマスパーティ券だとか、いろんな商品があるよなぁと感心する。どこでもクリスマスケーキを売っていて、どこでも鶏のモモとか売っている。鶏のモモはブロイラーが出始めの頃はよく食べたが、そんなに美味いモンじゃないしね。そんなくらいなら、クリスマスはサムゲタンというのはどうなんだろうね。昔、岡大近くの木の実(今は蒜山にある)で、すごくでかいナベですごくでかい鶏をつかったサムゲタンを喰ったことを思い出す。いずれにしても、気分は小島よしおで、基本的には仕事に励んできたし、今年もそれは変わらない。
 クリスマス・イブではあるが、疲労がたまっていたので、じっくり睡眠をとり、運動をした。いつものコースで清水が丘経由で10キロ歩いて、西スポーツセンターで4キロ泳いだ。保土ヶ谷駅前の不二家は、お客さんがたくさんはいっていた。イブなのでプールはすいていると思ったら、けっこう混んでいた。熟睡したので、けっこう身体が軽く、水に乗って泳ぎやすい感じだった。泳ぐ距離もあるし、歩く距離自体はこのコースのほうが長いくらいで、かつアップダウンもキツイのだけれども、早稲田通りなどを歩く方がキツイ気がする。まあ夜遅く、気温も低いからかもしれない。
 道中、昨日Moraでダウンロードした懐かしのフォーク調のものを聴く。同時期のS&Gのものと比べると、なんじゃこりゃあああというように私ですら言いたくなるようなギターワークのユニットもあるし、こりゃとってもジャパンクールではないだろうなぁなどと思い、初期のおばQのアニメなどを思い出して、もの悲しい気分になったりもした。まあしかし、よくよく考えてみると日本云々というよりは、フォーク調で、民族音楽基調のものがツボだったんだなぁと、回想したりした。
 ダウンロードしたなかに、紙ふうせんの「紙風船」があり、これを繰り返し聴きながら、横浜の丘陵地帯を歩いた。最近では、「月のワルツ」の諫山実生が歌っている。ちょっと気になって調べたら、はたしてメタルフォークも歌っていた。w 赤い鳥の歌の中では、私は「紙風船」が一番印象に残っている。竹田の子守歌/翼をくださいの両A面ミリオンセラーよりも、この曲が印象に残っているというのは、同世代の人なら、わかるんじゃないかと思う。
 この曲は、「落ちてきたら 今度はもっと 高く 高く 打ち上げようよ」。別に歌詞が替え歌にしなくてもわいかというんじゃないよ。って、あったりめぇだけど。つーか、馬路ファンに激怒されそうだけど。w この単純な歌詞がくり返される。しかし、繰り返しのあと突然転調する。そして、ポップ調のメロディにのって、歌詞が変幻し、くり返される。民族調からポップ調への転調により紙ふうせんハイファイセットに赤い鳥が分裂することが、表現されているような歌になっている。分裂したユニットの名前も印象的だ。作曲は紙ふうせん後藤悦治郎である。上野洋子吉良知彦竜虎相撃つZABADAKはのれんわけになったわけだが、赤い鳥の紙風船には亀裂がある。
 そういう意味で、紙ふうせんの「紙風船」がどんなことになっているかは、ちょっと興味があるのでダウンロードしたわけだ。聴いてみると、「落ちてきたら 今度はもっと 高く 高く 打ち上げようよ」という歌詞が、繰り返される。なんかさぁ、これってボレロぢゃね??みたいに思ったのは、そして思わせるかのようにつくってあるのは、世代的ないかんともしがたいペダントリーか、などとも思ったけど、単純な歌詞の繰り返しというのは、紙ふうせんが、フォーキーとかメロディアスというような形容で切りすてられないようなものであり、赤い鳥という試行に傾向の異なるいろんな音楽家が関わったことなども、思い出された。
 ボレロとなれば、最後の最後が問題なわけだけど、静かに終わり、最後に若干のフォルテが入る。赤い鳥バージョンのほうがラヴェルのモチーフが色濃いような気がしないこともないのである。と思ったら、最後にヒョロヒョロと笛の独奏で曲が終わる。最後にチョワーンとフォルテッシモが入ったりしねぇよな、まさか、と思ったが、さすがにそれはなかった。ちなみに諫山実生バージョンは、赤い鳥に近い。
 年末も近くなり、紅白で赤い鳥復活とかないかねぇとか思ったりもしたが、さすがにそのくらいでは、というかそういうことじゃよけいかもしれないが、再結成しそうもないよなぁ。やめちゃっている人もいるらしいし。ただ、団塊世代の年齢層などを考えると、いろんなフェスタがこれからあってもイイと思うのだが。個人的には、紙ふうせんさえあればいい。でも、赤い鳥が触媒になれば、ディソシエイトしていた何かが、アソシエイトするかもしれんのになぁ、新しい試行をみてみたいなぁと思ったりもするのでさる。ちなみにアソシエイト云々は、教授会での某先生の発言のパクリである。