吉野弘の夕焼け

 木曜日は非常勤の日で、池袋と成城学園を行き来する。途中都心の本屋やカフェによることができるのは、一つの楽しみである。電車が混んでいると、なかなかにつらいときもある。しかし、若干の減量もあり、へとへとになることは少ない。ただ、ちょっと仕事が重なり、卒論の添削も「あとにして」という状態で、電車に乗ってつり革にぶら下がり、ふぅーとため息を一つついたら、前にすわっていたこまっしゃくれたガキ、じゃないや小さなお子様が、「おじいちゃん席をどうぞ」と言った。お!えらい子だなと思い、顔を見たら、こっちを見ていて、目があった。で、もう一度「おじいちゃん席をどうぞ」。きょろきょろして、自分を指さすと、コクリとうなずきやがった。「あ、あ、ど、どうも」と言って座ったら、まわりの椰子らが笑っていやがる。なかには明らかに60杉という椰子らもいて、貴様らなぁ、と思いつつ、初体験をほろ苦く噛みしめ、吉野弘の夕焼けを思い出したのであった。井の頭公園で飲んだくれていた物故のさるフォークシンガーが歌にしていた有名な詩だ。席をゆずるゆずらないという一件がある時に常に頭に浮かぶ詩である。最初は、学校で習ったんじゃなかったかと思う。

「夕焼け」 吉野弘
いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりがすわった。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘はすわった。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
また立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘はすわった。
二度あることは と言うとおり
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
かわいそうに
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッとかんで
からだをこわばらせて――。
ぼくは電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
なぜって
やさしい心の持ち主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇をかんで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

 まあ、これは、エンタの何様にもあるようなあるあるネタであり、誰でも経験しそうなことである。私も経験したことがある。このへんの人間模様の観察は、電車の中での楽しみの一つである。タゲられやすい「やさしい人」というのは、それなりに誰にでもわかるところがあり、はたしてタゲられている。私は席のことではあまりゆずらされることはないが、けっこうその他ではゆずるようになることもある。けっこうあっさりゆずるのは、やさしいからではなく、自分の癒しのためである。ゆずられて、ちょっとした得をした人間がみせるマヌケ面は至上の癒しではないか。完璧に統制された表情に、わずかに浮かび上がる醜さだとすれば、喜悦百倍である。そういう自分に気づく、自家中毒的な吐き気もなかなかオツなものである。下唇をかんで、美しい夕焼けも見ないで、私は悶絶しそうになる。とまあ、ブラックな絶唱をしたくなるほどに、冒頭の初体験がショッキングだったのかと言えば、まあ、ネタかもしれない。ネタでないかもしれない。