学食のにおい

 私はほめられたりするのはすごく苦手だ。照れ性ということもあるのだが、それ以上に自己評価が「どーでもいい」みたいにして自分を守っているところがあるからだ。人間は、頭がいいとか、勉強しているとか、そういうところに固執しなければ、とても楽に生きられる。しかし、それでは力は伸びない。後から考えてみると、ものすごくつらい思いをしているとき、成長していたということが多いと思う。
 昨日の研究会で、音楽社会学の重鎮O先生と初めてお話をした。今まで顔をあわせたことも何度かあるのだが、社交ベタでカサコソとふるまってきた。自著についての話になって、照れくさいので下卑た話に逃げようかと思ったら、先生は「地方の大学の学食のにおいがする」と言ってくださった。
 においというのが卓抜だ。香りとかいうと、妙に美化した感じだ。書物に一定の限界付けをした意味もあるだろうが、それ以上にひからびた水脈に水を流し込んでいただいたような気分になった。たぶんそれこそ、私が伝えたかった文化なんじゃないかと思うからだ。この一言をいただいただけでも、飲み会まで行ったかいがあったと思った。「学食のにおい」というコピーは、いろいろ思い悩むことも多い現況において、大きな手がかりになると思う。
 とは言え、学食を喪失した状況の今/ここにおいて、なにをなすべきかはよくわからない。実は、『女子大学のフィールドワーク』みたいなものは、すぐにでも書けると思う。おちゃらけだけじゃなく、かなり細密なところまで書ける事例は最低でも五つはある。まあただ今は個人情報が非常に難しい時代であるし、また、ギャグのネタ帳のような文体を使うような年齢でもないし、いったいどうしたらよいのだろうか。さすがに、ちゃらいことはきつくなっている。それよりもなによりも、今の「学食のにおい」を描くには、私の画風はきついと思う。しかし、それはもしかするとディバイドなのかもしれない。
 研究会では、第一報告がハイデガーの話から入ったこともあり、リアリティ、バーチャリティと死という問題がとりわけ印象に残った。なぜ死ばかりが問題になるのだろうと思ったんだが、それはたぶんボードリアールとかの関連があるんじゃないかと思う。そのときぼーっと思い浮かべていたのは、同僚の先生でハイデガーについて、アレントなどと対照しながら、誕生論について立論していた人がいたなぁと言うこと。無→有というベクトルの束が、さまざまなリアルをつくっている。もう一方におかれるのは、「否〜」というわけではなく、一方的に→があるだけかもしれない。そして、「否〜」のnであらわさられるものは、ミードの「I」だよなぁなどと思ったりもしたが、だからどうなんだということもあるし、そこから松浦雄介さんの記憶論などの論を想いうかべているうちに、わけわかんなくなってしまった。
 日曜も大学に出てきて、仕事をする。一通り書類をつくって、小休止でビデオを見る。コンバットの見逃したもの。EE男の神様。どうみても基督仕様。頭に草花つけたのはいいが、なんでこんなに薄汚れているのかよくわからない。ギャグになるということは、欧米の余裕と言うべきか、はたまたギャグのほうが欧米的と言うべきか、判断に迷うところがある。EE男今田耕司をせこくしたようななんともいえない絵面のフラはすごいものがあると思うし、とりあえずいてもじゃまにならないというか、サティ風に言えば「家具のギャグ」とかなるんかね。その象徴的存在は、スンパイダーマンだろうが。仏様も出てきて、ニッと笑うモーションは、なかなかの興趣であった。
 それにしても、森三中島風の仏様も面白いわけだが、そりゃあタブーに挑戦なら、どこまでやるんだろうと思わないことはないが、やはりできないものは多いわけだよな。宗教だと、もう一つのをやったら、処刑指令がでるだろうし、アジア付近のものはやはりできないと思うし、あと国内のやんごとなきものなどはできないだろう。そこまでできないだろうぜ、コンバットも。wできる範囲で言えば、プーチンとか面白そうだけど、メンツを見るとあきげんがアミン大統領をできるくらいで、それはたぶん笑える人が視聴者にいるかは、禿げしく疑問である。誰か1人で、ハゲフサ理論を七変化でやって欲しい気もするが、路線が違うよな。同一状況別キャラという趣向は、同一キャラ演じワケの延長だろうが、そのつぎはどうなるんだべ。