野ブタ。をプロデュース

 三年ゼミでいじめとかの話題になり、「ワシは一度もいじめられたことはない」と言ったら、一同「工工エエェェ(´Д`)ェェエエ工工」という反応だった。いちびった椰子らが、部分的に言ったのではなく、クラス全体が工工エエェェ(´Д`)ェェエエ工工という感じだった。幼稚園の頃異年齢集団のなかで、洗礼のようないじめを受けたことがないとは言わないが、小学校に入ってからは、いじめたことは数限りないが、いじめられたことはない。なぜならば、小学校時代は腕っ節が強かったからだろうと思う。もう一つに、『人間失格』の「わざわざ」というような知恵は、異年齢集団の洗礼のなかで鍛え上げられていた。キモデブというスティグマは、ものごころついた頃からあったが、いくらでも水路づけられることを、下町の異年齢集団は教えてくれていた。そんなこともあり、横浜でも有数のお坊ちゃん学校であった中学、高校の連中は、まあちょろいもんと言えばちょろいもんだったわけで、いじめられるなどということは考えたこともないし、大学以降もあまり意識したことはなかった。
 で、ベタに学生に工工エエェェ(´Д`)ェェエエ工工と言われ、なんかよくわからないが、「そういうことなのか」と今時のキモデブの運命のようなものを実感した。で、社会学のテキストに紹介されていた『野ブタ。をプロデュース』のことを思い出した。信太=野豚というキモデブが陽気にいぢめられる話ということは聞いていた。本を読もうかと思ったけど、面倒なのでドラマを見ることにした。見始めたら様子が違う。柳の木のところに、恨めしやなねえちゃんがいて、ヤバキモイ長い黒髪で、薄汚れて、うなだれた様子は、貞子のポンチ絵のようで、ちょっとわら萌えた。で、でこぼこコンビがしゅーじとあきら=カメとクロサギって、これってジャニのユニットぢゃねえの?と思ったら、やっぱりそうだった。そんなことも知らないのかというかもしれないが、文化の社会学みたいなことをやっているのに、私はそんなことも知らないのである。わははは。どんなもんだいというかんじ。しかも、そのながいスティグマなねえちゃんが、堀北真希であることは、Sound Horizonもぶっ飛ぶような、怖いお人形が出てくるあたりで、初めて気がつくというていたらくであった。まあ私はマジで、十一時前はほとんどテレビを見ないのですよ。平日は少なくとも。
 で、ウィキペディアを調べたら、テレビ化で信太は信子になっていた。でも野ブタのまんまというのは、気合い過ぎてワロタ。そこには、すごい力の入った紹介文が書いてあり、非常に興味深く、それだけでもおなかいっぱいという感じだったが、一応みることにした。DVDのよいところは、まとまりごとに区切ってあるので、適当にスキップしてゆくと、鬼早くみられるんだよね。サクッと一通りみて、ツボっぽいところを中心にじっくり見ることになった。本格派な椰子とか、パンクな椰子とかが、忌み嫌うような風俗小説、私小説などが好みであることもあって、教養小説風も嫌いじゃないわけだが、非常に手の込んだ作り込みがなされていて、どんな角度からもみられるようになっているかんじ。堀北で言えば、「小汚く鬱鬱でろでろ→こいつ笑うと口のわきが痙攣するんだよ→ニコッ」みたいな変化が取り出せるわけだが、まあこれはワンオブゼムなわけですよね。でもって、それぞれのおりおりの「髪を切る」オトシマエが、シュールなまでにかまびすしく折り重ねられ、かつとっちらかるわけじゃなく、そこそこに像をところどころにぬらっと浮き立たせているところは、実に痛快娯楽ドラマだよな。
 絶望の癒しと希望の苦痛が、それぞれの表情のなかに現れたかと思うと、人間関係や、街の風景や、いろんな映像として現れ、そういう感情の運動のようなものが、変幻してゆく。一気にみてしまった。最後の笑顔は、癒しや救いが、傷だらけで泥だらけのものであり、真っ白に浄めようとする衝動が、いじめ/いじめられ、殺し/殺され、自死自死され・・・などにつながるのだよと、必死に語りかけられているようにもみえる。よく考えてみると、真っ白の裏面としての真っ黒の存在を意識し、その真っ黒との支点を探してみたらということなのかもしれない。しかし、「・・・なのだよ」という語りは、真っ白の啓蒙に陥らざるを得ず、ネット各所のコメントも、「気づかされた」というような、真っ白志向のものが多いわけだけど、その辺の事情を予測してか、作品世界は、予定調和と自己崩壊のアンバランスが醸すリアルとして、こ気味よく運動する残像を結実する。そこから、こ気味よさへの憎しみがこみ上げてくるのも抑えられないが、それも計算されていたとすれば、マジスゲェと思うよ。