日式焼き豚

 ケアレスミスや間違いを少なくするのには、すべてを真っ白に保っていないと気が済まないという構えは、非常にストレスが溜まるわけで、むしろ間違いを直視することが重要だと思う。前にミス連発の頃、アドバイスを担任教師にもらったのだが、一つは間違いノートをつけること、もう一つはあらゆる意味で「消しゴム」はつかわないことということだった。自分を甘やかさずに自分の間違い、自分の悪いところ、自分の欠点を、傾向分析するということだ。高校に入ってからは、ノートもボールペンでとるようになった。間違いは消さずに線を引いて訂正する。最初は、書き損じて無惨なノートになる。これを見つめることは、実にイイ訓練になった。大学に入る頃には、ほとんどミスなしにノートができるようになった。ワープロができるまでは、原稿用紙にボールペンで原稿を書いた。これも訓練で、かなり完成度の高いものが書けるようになる。あらゆる意味でそういう訓練ができなくなっている気がしてならない。リセットできることは、すばらしいことだけど、リセットボタンばかり押してごまかしている心理は、現代社会をむしばんでいるような気がする。別に、あいかわらずケアレスミスが多いことを、正当化しているわけじゃないよ。w
 連休で実家に帰り、横浜付近の情報をいろいろきいた。尾島精肉店のチャーシューは、上大かのどこかや、二子玉かなんかに出て成果をおさめ、ついに横浜高島屋に出るのだという。東京はまわりが赤く色がついてこんがり焼き上げたチャーシューを中華料理の前菜とか以外では食べないので、定着には苦労があったようだ。うちの近くにあった、源宗近というラーメン屋さんは、釜で焼き上げたチャーシューでかなり美味かったのだが、最近新味になったのを契機に東京風に赤くないのになっちゃった。まあこれは経営合理化なのかもしれないけどね。なかには赤いのはキモイみたいな人もいるのはたしかだ。
 でも、喰っていれば誰にも美味さは理解できるだろう。で、二子玉では売れるようになったらしい。中華街のより、こんがりジューシーというのが特徴だと私は思っていたのだが、うちの親によると、八角がきつくないということだった。たしかにそれが日本風なのかなぁと思う。中華料理屋も、中国の人が開店したものより、昔からあるところは、香料がきつくない。フレンチと洋食みたいなもんだろうか。焼きたてのちょっとサシの多いところを買って、端っこのちょっと焦げたところを食べたら、もうやみつきですよ。
 もちろんどちらが美味いというわけじゃない。日式も美味いけど、中国式も美味い。赤い色のチャーシューと、皮付きのバラ肉を茶色く焼いた焼き豚があるらしい。東京風は、両者がクロスオーバーしたカンジかな。まあ、どーでもいいよね。野毛のものが、一つでも多く、メジャーになって欲しいし、野毛がアキバみたいにならないかなぁなどと思っているワケなんだよね。伊勢佐木がエスニックになり、カチンコチン巨大資本はみなとみらいで、すごい駐車場が多くなっていて、寂しい気がするから。
 閑話休題。最近カップ焼きそばを何度か続けて食べた。身体によくないのかもしれないが、ときおり猛烈に食べたくなる。いろいろ食べたが、ペヤングがどうしても口に合う。自分でつくる焼きそば自体はウスターソースのほうが好きなのだが、カップだと「味はまろやか」なほうになってしまうのであった。まあこういうものは、ガキの頃喰ったものが味覚の骨格をつくるんだろう。しかし、最近の即席ラーメンだが、○○屋みたいなブランドラーメンのカップ麺が目立ち、ものすごい細分化が進んでいる。定番は、わずかでサッポロ一番とか、チキンラーメンとかが残るのみでしょ。ごま味、えぞ味、りゅうしょうメンとか、企業が心血を注いで商品開発して、そこそこ大量流通するのは、もう流行らないんだろうかな。まあ、チンすれば、なんでもできてという時代だしね。しかし、コンビニに、ごま味は標準装備して欲しいけどな。
 なつかし文具が話題になっている。ねりけしごむだとか、でか筆入れだとか、あとゾウが踏んでも壊れないというのもあったか。スーパーカー消しゴムをノック式のボールペンで動かしたという人たちもいるだろうけど、小学校の時は、鉛筆買っても、半分くらいかじって喰っちゃったりしていたし、考えると絵の具もビリジアンが美味いとか、消しゴムも昔ながらのプラスチックじゃないのが美味いとか、クレヨンはまずいとか、馬路ろくでもないことをしていたので、文具の思い出はあまりない。やっぱり何でもかんでも喰っちゃったというのは、ある程度人格がおかしくなる要素があったんだろうな。高学年になって、ノートのとり方をみっちり仕込まれ、優等生の級友が使っていた方眼罫のノートを買って、きれいに書いていくようになったというくらいだね。
 中学に行くと、すぐにフィラノートを使うようになって、ミシン目のついた二穴のノートは、岡大時代まで使い続けたから、あまりに文具に凝らなかったよね。文具自体は好きだったけど、結局フィラノートとボールペンというのが、定着した。あとは、ステットラーというか、マルスのホルダーが中学で流行ったくらいかなぁ。マルスのブルーの商品は、実にデザインがよく、舶来趣味はケッという家に育ったのに、なぜかブランド志向が強まった気はする。まあしかし、今は、ボールペンで言えば、三菱パワータンクのような高機能低価格のものが出てしまっていて、ばかばかしくて高価なものは買う気もしないよな。そうでもないかね。今ならば、牛革の筆入れなんか楽々買えるのに草履袋みたいな大きな袋にはさみからなにからぶち込んであるからなぁ。