『カポーティ』白と黒の処刑

 ほんでもって『カポーティ』みますた。なぜみたかというと、ニューオリンズに生まれ、ミシシッピアラバマなどアメリカの深南部を転々とした人間が『ニューヨーカー』で仕事をし、東部の社交界でぶいぶいいわしていたということが、ミルズの軌跡とも重なり、風景の対比のようなものがみられるのではないかと思ったからである。四人の惨殺事件が起こったのは、アメリカのど真ん中のカンサスで、事件が起きた家の遠景から映画は始まる。映像はしっとりと落ち着いていて、安らぎを感じる。それを切り裂くスクリ〜〜ム、ってな感じで、映画が始まる。他方で、かちんこちんギンギンなニューヨークの社交界や、マンハッタンの遠景がしばしば映し出され、構図がセットされますたってかんじでしょうか。ともかく、そういった風景に触れただけで、アメリカ研究を志していた頃の、健康な精神状態や凶暴な勉学意欲が思い出され、胸キュンなものがある。

1959年、カンザス州の小さな町で、一家4人が惨殺されるという事件が起こった。ニューヨーク・タイムズでこの事件を知ったカポーティは興味を持ち、幼馴染のハーパー・リーと共に現場に向かう。(ウィキペディアより)

 一晩たって眼に浮かぶのは、二つのバディの映像である。あるいは喉笛をかききられ、あるいは顔面を銃で撃ち抜かれ一家は殺された。娘の棺をカポーティがあけると、エンバーミングとかの技術がなかった時代だし、顔に白い布がぐるぐるまかれている。他方、ネックハンギングされた犯人の顔には、処刑用の黒い布がかぶせられている。チキンにビビリまくり、会いたくねぇだとか、みたくねぇだとかわめきちらしていたカポーティは、正面から仁王立ちで凝視する。この白と黒の対比は、あざといまでに鮮やかだ。映画の中程でカポーティは次のようなことをボソッと言う。犯人も自分も同じようなもんだ。彼は裏口から出て行き、ボクは表口から出て行ったというだけのこと。犯人は、ネイティブアメリカンとの「ハーフ」、カポーティはそうじゃないっつぅこともあるわけだが、二人とも朝日のあたる家みたいな状況で、家族離別自殺しまくり状況のなかで大人になった。
 小説の題名を秘匿して、友人の顔をし、小説を完成させようとする作家が一方でいて、死んでくれないと書けねぇと編集者と相談したりする。社交界には、弱者を食い物にして、エスタブリッシュされちゃっている椰子らが集まり、スノッブな会話にうつつを抜かす。そこで才気を発散するカポーティが、いささかアレなのも、たぶん役作りの一つなんだろうね。そして、しつこく二度も言いやがったユダヤ人と黒人のモーホーがみたいなジョーク――ギャグじゃねぇんだよなこれが――がいろいろな構図の伏線になっていたりもするんだろう。テンパって、華麗に舞っていたカポーティが、事件にはまりこんでいくモチーフは、白い布の恐怖なわけだろうが、そこに安らぎを感じてしまうというのもわかるっちゃわかるべ。で、早く処刑されないと小説最後までかけねぢゃん、だから逝ってよしと思いつつも、死んじゃやだみたいにも思っている。
 犯人をタイーホした警察の人の一家も味わい深い。カポーティのカチンコチンアーバンな雰囲気は、静かな保守的な街で好かれるわけがない。よそ者だし、しかもレッドネッカーの憎悪のツボつきまくりのパフォーマンスだし。でも、妻の方は小説のファンで、そこにつけいって家に出入りする。おっさんの方は、抑制しているけど、かなりむかついている感じ。w対比が醸し出す苦みは、そのまんま現代社会の苦みでもあるんだろう。まあしかし、ヴァナキュラーに生きているおっさんたちにも救いがあるわけでもないだろう。それは、幼なじみの『アラバマ物語』の著者にしても同じこと。この女性は、最初は救いっぽくある。でも、実はそうでもないんだろう。教科書に載るような作品を書いちゃった椰子は、田舎町でもウケがいいし、聡明に生きている。理解者でもある。しかし、そういうものを超えて成り上がり、滅びてゆくものがある。
 難しい映画でよくわかんなかったところも多いし、見終わったあともわけわかめだとおもったんだが、とにもかくにも白と黒のバディの顔の布と、サブリミナルにちかちか入れられていた写真の数々と、そしてカンサスの風景と、ニューヨークの風景、そのなかで異様なパフォーマンスをする小説家の姿は、がっつり残像として残っています。