宮台真司・鈴木弘輝・堀内進之介『幸福論』

 つべで話題騒然の某都知事候補でありますが、本日選挙公報みてぶっとび。笑ってるんだもんな。執筆も佳境に入り、一通り書き上げたものを最初に戻り、ターミノロジーを単純化し、一本筋を通す作業をしている。昼の定食のチキンカツが、女子大の学食とは思えないわらじ仕様で、非常に重かったのだが、まあともかく気合いで作業を進める。ホッと一息して、郵便受けを見たら、『幸福論』という本が届いていた。なんだ、宗教か?と思ったら、噂の現代位相研究所鈴木さんからの献本でございました。ありがとうございます。ぺらぺらとめくり、「お!」と思ったのが、「デプス」で近頃の若いもんはそーゆーのがわからないなどとかいてあり、流石審美眼がちゃうやんけ、やっぱデブスだよなぁと思ってよく見たら、「深さ」がないという意味で爆(´・ω・`)ショボーンだった。ボクは、「でぶでぶす」と思い、鬼はあと(☼Д☼) ♡」だったという、ていたらくでございまして、なんか申し上げるようなことがあるとは思えないので、位相研の鈴木弘輝さんの紹介を引用しておきたいと思います。

宮台真司・鈴木弘輝・堀内進之介『幸福論 〜〈共生〉の不可能と不可避について〜』(NHKブックス


目次

「幸福の設計」はいかにして可能なのか 宮台
第一章 パターナリズムこそ幸福の大前提?
第二章 いかに幸せだと思わせるか――幸福の社会工学
第三章 エリートが「幸福社会」を作るのか?
「幸福」から「教育」へ 「教育」から「幸福」へ 鈴木
第四章 教育を通して「疑似階級社会}を作る?
第五章 <社会設計>の不可能と不可避
批判の可能性を切り開く批判 堀内

鈴木弘輝さんのごあいさつ

 編集作業も終盤を向かえ、宮台真司氏と堀内進之介氏との共著である本が、ようやくNHKブックスから出版されるめどがついた。今のところ、三月下旬である。
この本は、私も含めた三人によって行われた鼎談を「再編集」したものである。その中で、三人はそれぞれ異なった立場から、主に「政治のあり方」や「教育のあり方」などについて論じている。しかし、話はそれだけに留まらない。現代の政治・社会哲学をめぐる立ち入った議論も展開しているし、「オタク」、さらには「代理母問題」といったものまで話題になっている。著者の一人としては、「ややごった煮になったかなあ」と正直思わなくもない。しかし、これ一冊で「現代社会の様々な問題にふれられる」というのは間違いないと思う。これは、自画自賛である。
 ここまで来るのに、ほんとうに様々な紆余曲折があった。最初に三人の会話を録音したものを文字化してもらい、それに各自が手を加えていくのだが、様々な理由で加筆による加筆が繰り返されていく。作業工程も、締め切りもあったものではない。そのおかげで、最終的に出来上がった原稿は、最初の会話とおよそかけ離れたものになってしまった。この著作に携わっていた一人が、「最初のテープ起こし原稿は一体何だったんだ?」と打ち合わせ中につぶやいていたが、全くその通りだとしか言いようがない。「再編集」という言葉には、ここに至るまでの様々な思いがこめられている。
 とはいっても、著者三人の関係上、この本は「ゼミ本」、「師弟本」といったレッテルが貼られるのであろう。しかし、私たち著者が一貫して気をつけていたのは、「いかにもナアナアの雰囲気が漂うものにするのはやめよう」ということである。そして、実際にそのようにはなっていないと思う。ページによっては、著者の一人としても、「これはどうなの?」と引いてしまうような表現があったりする。まあ、それもひとつの「ロールプレイ」だと読者に思われてしまってはどうしようもないが、著者としては「真剣勝負」の部分をぜひとも汲み取っていだたきたい。何はともあれ、どうぞよろしくお願いいたします
http://modernphase.blog95.fc2.com/blog-entry-3.html

とにもかくにも、「共生の不可能」とぶちあげてしまい、でも、「共生の不可避」とかえす。社民、ネオリベなど、跋扈などとすら言えなくなった現状において、共生とあほづらさげて言って、涙ぐんでも解決はしねぇよ、だいたいそんなの偽善だろと言われたら、返す言葉もない。クルマや空調は好きだけど、全人類が経済発展したら、どうなっちゃうのということであるし、でも、共生しないわけにも行かない。論理の空隙はとりあえず、意図的に不平等をつくること、社会のしきりを作り直すことぢゃね?みたいなかんじで、挑発的にものを言うとさすがにエッジもたってくる。しかし、その一ひねりばかりではなく、なかなか玄妙な論の運びであると思う。とまあ、これくらいは、忙しくて読んでなくても、タイトルと目次くらい見ればアホでも書けると言われたら、返す言葉もない。だってそのとおりなんだもん。(´・ω・`)
 鈴木さんのなんとも言えない味わい深い話術が、思い出される。エッジの立った凶暴なロジックをくり出すというよりは、丁寧に整理して語り、総覧した話を縹渺と回す力量は、今回はどんなことになっているだろうと思って、楽しみにめくっている。ご業績のなかの「バスに乗り遅れるな論」からは少なからず影響を受けたので、そのあたりの先後の社会心理史についての知見がどのように発展させられているかなどということにも注意しながら読み進んだが、さすがに忙しいので途中までとした。堀内さんの時に挑発的な発言もスリリングで、自分の仕事が終わったら読み込んでみたいと思う。
 著者たちの意図がどのようなものかはわからないが、『21世紀の現実』にもあった「機能の言葉」をめぐる理論的語りをひろってしまう。そして、さらっと言っていることなどもふくめ、難しい理論が感覚的にストンと理解に落ちるような言い回しが多く、知的興奮を感じる。上野千鶴子が例の「解説」でいっていたみたいに、近頃の若いもんはと言い始めたのは焼きがまわったということで、最近の著作傾向、理論傾向が自己模倣にすぎなくなっているのだろうか。私は違うと思っている。何かがここにはあると思う。それは夢よもう一度、夢よぼくにもの挑発的な部分ではなく、ひたすらに重ねてきた機能分析の理論化の方向にあるのではないか。凸式、王子たちほかで、シンポでも・・・などと思うのは私だけなのだろうか。わかりもしないのに、拙劣なことを書いてしまった。プゲラと笑われてもしょうがない。忙しいので堪忍してちょうだい。w