ダニエル・ベルの生き様

 いよいよ入試です。あいかわらず日記へのアクセスは、野見隆明がらみで、ここまでならさ、野見隆明なりきり選手権とかやりゃあいいのにな。ボーッとログみていたら、面白いアクセスがあった。やふうの検索から、「ダニエル・ベルの生き様」。かなり笑った。なんか試験で調べているのかね。どんな文章がヒットしているかというと、「緒にダニエル・ベルらの現代社会論の論文や、クランダーマンスらの資源動員論系列の社会運動論の論文を英語で読んだころがなつかしい。 ... OriTubeのヨネヨネ. おっさん野見の生き様と曲乗り.」とまた野見かよってカンジです。しかし、試験でも出たんですかね。ダニエル・ベルの軌跡については、矢澤修次郎氏の『アメリカ知識人の思想』.に載っている論文がとりわけ詳しいのと、あと東北大学のかたで一貫してベルを研究している人がいて、その辺の雑誌を見れば、論文がけっこうあるんじゃないかと思われますけどね。でも、ダニエル・ベルの「生き様」が書いてあるかどうか知りませんよ。
 今日は会議づくめでした。昼から、八時過ぎまで。こんなこと珍しいです。やはり大学の将来構想ということが議題になると、みんな熱がこもります。小規模の大学で、昔ながらの重厚な風格のある学問と、実験的なユニットを共存してゆくことの難しさをかみしめています。それでも時に和やかな冗談なども交えながら、討議が進んだことは、非常にうれしいことだし、大学の可能性を感じました。
 帰ったら学会ニュースが届いていた。今流行の倫理規定のことがのっていた。二つ(・∀・)イイ!!と思ったところがある。一つは、アイディアを学んだときもきちっと注記しろという指示。「うっかりゼミでコメントできない」「あいつとはもう議論できない」など、情けないことばを耳にすることも少なくない。誠実ぶるわけじゃないが、私は学生の卒論から学んだときも注記している。これは昔からそうだった。岡山に就職したころ、とある同僚に「こういうアイディア注記って、有名な先生を知ってますよって自慢しているみたいで嫌みだと思う」と率直発言され、納得するとともに、なんかどうしても認めたくない気持ちが残った。今回の学会ニュースを読んで、迷いなく注記できるなぁとすっきりした気持ちになった。
 もう一つは「身内の論文だけを引用するようなのは、勉強不足だ」という主旨の指摘。「とるにたらない論文」を読んでいないことを自慢にしているような発言すら耳にすることもある。私は不器用で、査読誌に投稿することもままならず、紀要にばかり引用されることもない論文を書いていてかなり悔しい思いをしてきた。同僚だった山口素光さんに言われたことばは印象に残っている。「論文なんか紀要に書いても、どこに書いても同じ。どこに書いてもホンモノはかならず調べて読んでくれている。読んでもらうべき人は必ず読んでくれているはず」。いぶし銀のような渋い芸風の先生の言うことだけに説得的だったし、勇気を得た。それ以来、できるだけ学会誌の論文は読むようにしている。
 明日は社会学概論の試験である。持ち込み不可即題という試験。まあそうしないと必修の人は勉強しないからね。復習の仕方で重要なのは、まず頭の中で、半年の講義を思いだしてみることだと思う。流れをつくる。しばらくしたら、ノートを見て、重要な流れをいくつか思い出す。また頭の中で反芻する。ノートを見る。教科書を読む。大筋をつかめば、枝葉末節は案外楽に記憶される。短く記述解答する問題をたくさんつくり、解答することで勉強する。本当はそういう質問をフロアに畳みかける授業がしたかった。なかなかそれは難しいが、いつかは大教室でそれをしてみたいと思う。