教養としての京都

 いつもは朝寝坊なのにピシッと目が覚めて、リッツに向かう。今日は、こんとらくちおさんたちの部会がある日なのです。正直、理論的には私の歯の立つものではないのですが、ネタ的に何か拾えるんじゃないかと、パソコンを持ってゆきました。三十分以上前に着き、定位置ともいえる最後列に陣取りました。パソコンを音声ミュートに設定し、準備完了。その間客ががんがん増える。こりゃあはっきりいって、二日目午前のぶかいじゃないっすよ。あたしなんか、報告者入れて数人の部会で報告してなきそうになったこともあります。wともかく部屋の後ろには会場係が次々にいすを運び入れます。数個おいてあったのは昨日もありましたが、今日は補助いすが三列。密集。さらに、前にも補助いす。さらにそれで座りきれないで、黒板の前にうんこすわりしている女性までいました。その傍らで緊張しながら報告している王子の飛んだ眼がきゅーとでした。w
 異様な熱気のなか、まわりをみると、エスノメソドロジーの重鎮、中堅、構築主義の本を出した二人、女性学の重鎮、そしてもちろんBBさん、べんせんせなどるーまそぎょーかいのひとなど。あと、近著を出したN丘先生もこられていたらしいです。すごすぎる。で、シュタッとひげをそりあげたこんとらくちおさんが登場し、報告を始められました。経験研究とルーマンという報告はべたに面白く、パソコンを閉じて、まじめに聞いてしまいました。
 凸式論文をめぐる評価と批判はシャープで、日曜社会学者ノムコウがどうなるかは想像もつきませんが、「王子」ともども、インパクトのある問題提起により一定の地歩を築いたとは言えるのではないかと思いました。BBさんが、辛口のコメントをされていましたが、非常に好意的なもののように思われ、仕込かと思ったくらいです。w社会学会はろくな討論ができないでどうしようもねぇなぁと思っていたのですが、今回聞いてみて、フジテレビの『インパクト』というお笑い番組のようないき方はあるかなぁと思いました。お笑いの俳句ともいうべきもので、「あいとぅいまて〜ん」「たまにおるやろ」などのせりふや、やくざねたや、わきならしなど、短い時間にシュタッと言いたいことを提示するというやりかたです。問題提起をする報告、新データを出す報告、修正データを出す報告、あるいはデータではなく理論を出す報告など、いろんな分類も可能かもしれませんが、貢献を明示しているかというハードルを設けるくらいのことをすれば、持ち帰れるものもわかりやすいかなぁとおもいますが、標準化すると、理系的な研究ばかりが残ってしまうかもしれないなぁなどと思いました。まあ結局、実況はまったくできずに、まいみくからは、みくし日記に「実況はねぇのかよ」日記まで書かれてしまうという体たらくでございました。すんまそん。用事があったのでばっくれまして、報告も第四報告までとなり討論はきけませんでした。
 タクシーに乗ると、京都の運転手さんの教養に驚くことがあります。今回も、歴史、地理、自然科学から、花鳥風月いろいろなものを見聞きした経験が迸っていて、わくわくするような楽しさを感じることがありました。まさに教養としての京都だなと思います。聞いてみると京都検定で二級だそうです。それからの話が面白く、四択の試験、記述式の試験、論文式の試験などについて、いろいろな評価と批判をされていました。「京都学」というアーツが、検定というおよそ似つかわしくないものになることについては、興味津々な面もあるのですが、そのうち「京都学科」みたいなものもできるのでしょうし、検定合格を競い合うなんてことあるんじゃないかと思います。しかし、他方で、それでいいのかという人もいるでしょう。つまりカルトQみたいなというか。そのことから逆に教養教育というものが見えてくるようなきもしないことはないのです。
 ある料理の漫画に、道端にあるちょっとした花や、地蔵や、その他もろもろの四季の変化に目をやることが大事みたいなことがかいてあり、ふぅんそんなもんなのかね。などと思いましたけど、一定の時代に、一定の場所で、一定の教育を受けると、なんかよくわからないけれども、似通った何かが醸成されているように思えることがあり、それが校風みたいなことになっている。今回の履修単位不足の問題でも、責任問題は責任問題にしても、何かが違うような気がしてならないのでした。
 実は私と同級の福岡のS高校で、京都大学の願書を教員が出し忘れ、全員が一浪決定というすさまじいことがありました。S高校出身のやつと寮の同室になり、ショックの大きさを知りました。具体的にはいえませんが、話を聞いて、その級友たちは偉い人たちだなぁと思いました。窮地にあって、どんな識見を示すことができるかも重要なことだと思います。しかし、責任者のおかげで大学落ちたどうしてくれるんだとたくさんの訴訟が起こすことが正しいという社会に向かっているのかもしれません。もちろんそれは当然の権利だとは思いますが、なんとなくさびしいものを感じる今日この頃というのは、滅私奉公てきなものが私の中にあるからかもしれません。