小学校古文漢文暗唱考

 日曜に御輿が出るということで土曜に横浜に戻ってくる。戻ってくると御輿は明日なのに、昨日夜宮で御霊入ったッツーことで、もうおりゃおりゃやっていて大笑い。明日は甲子園の決勝で、かつぐ時間と重なるんだけど、どうするんだろうか。決勝と重なったのは久しぶりじゃないか。たしか太田幸司の延長18回の時には、終わってから御輿出すみたいなことにしたんじゃなかったっけ。まああのときの熱狂は尋常ではなかったわけだが、早稲田実業駒大苫小牧というのはよいかーどだよね。田中の高めの速球をまたみてみたいのだがどうだろう。
 横浜に帰る途中アキバに寄った。横浜の周辺機器整備のためである。眼鏡、リュック、デブと三拍子そろったアキバ風であったはずなのだが、降り立ってみると、けっこう浮いている。あんちゃんたちが、わしを指さして「キター」みたいにしている。貴様らやるなら、メイド風のねぇさんや、王子みたいなあんちゃんにしろと思ったが、しょうがねぇなあととほほな気分になった。
 2ちゃんのニュー速にに立ったスレッドがかなり伸びている。大学時代から自治会のビラとかみてきて、社会人になってからも組合のビラとかみてきて、別に暗唱したわけじゃないんだけど、「中教審」とくると、「×」みたいなことが反射的に出てくるようになっちゃっているところもあって、イメージはよくないんだけどさ、「古文漢文=復古調」というのは、短絡じゃないのかね。「文化の継承」などと言っていると、なんか点数稼ぎまたやってんのかとか思わないこともないんだけどね。

1 名前:☆ばぐた☆ ◆JSGFLSFOXQ @☆ばぐ太☆φ ★ 2006/08/19(土) 21:54:29 ID:???O★「古文暗唱」小学国語に  中教審検討、漢文指導も /学習指導要領の見直しを進めている中教審の教育課程部会は、小学校の国語の授業に 「暗唱と音読」を重視した古文・漢文など古典の指導を盛り込む方向で、18日までに本格的な検討に入った。「やさしい文語調の文章に親しむ」ことを掲げた現在の指導要領よりも「文化の継承」を強調し、古典重視の姿勢を鮮明にした。改定されれば全国の小学校で枕草子など古い時代の古文や論語漢詩などを暗唱する授業が実施されることになる。「復古調」と指摘する声もあり、議論を呼びそうだ。小学校での古典学習は現在、短歌や俳句、ことわざなどを音読させる指導が主流で、時代が 古い漢文や漢詩などは、全員が学ぶ必要のない「発展的内容」として扱われている。

 問題はやりようだよね。なにをどう教えたって、そんなに変わらないような気もする。育つのは、教える側と教わる側の一期一会みたいなところがある。学びの心棒というか向学のエートスみたいなものがどう育てられるかが、初等教育の大きな問題じゃないかな。戦前の教育が高度成長をつくったという判断があって、変わるような教育をしないとやばいという判断は、正しい面もあるとは思うけど、競争社会の選別動員というシステムが本格始動しているところで、総動員の枠組みをすり込ませることの妥当性については、真剣に考えないと、「復古調イイじゃない」という点数稼ぎにしかならないんじゃないかと思う。
 フランスのまねみたいなこともあるだろうが、とってつけたようなまねだと、頑迷な保守的な伝統の上になりたっているものとは異なるものになるだろう。犬養道子のフランス文化絶賛と、日本のテレビ文化批判を思い出す。今の社会に、応分の担い手がいるのだろうか。いくら暗唱したからって、正しい国民が育つわけでもないからね。夏休みの自由研究で、歴代天皇の名前を暗記していって暗唱したら、じょーとうじゃないみたいなことになり、校長室でやれと言われ、やったら校長が悲しそうな顔をした。かなり保守的な校長だったと思うが、パンクを見透かされたような厭な気持ちになった。もちろんその当時はパンクなんて言葉は知らなかったけど。愛国行進曲を遠足で歌ったのも同じことだろう。ただ、校長はすごい人だと思ったよ。子供心に。暗唱や愛唱に目くじらたてるのとも、絶賛するのともちがうところに大事なことはあると思う。教育を国力をつくるための動員システム作りと考えても、文化的伝統にどれほどの動員力があるかどうかは、動員の枠組みによるんじゃないかと思う。
 ただ、繰り返しイニシエーションすると、「死ねる人」は育てられるかもしれないかなぁ。修行するぞ修行するぞみたいなのは、どーもいやだな。そういうことをしようってわけでもないでしょ。ちがうの??たださ、露骨なまでにイデオロギーの話ってシンプルでパワフルなんだけどね。特定のイズムは、批判されたり、ちゃかされたりするのをものすごく嫌う。支持されれば喜ぶ。
 前にも書いたけど、学校の屋上にみんなを連れて行き、ネオンを見せて、「きれいか?」と聞いて、わしが「うん☆」とかゆったら、「資本はきたねぇんだ」とか胸ぐら捕まれてぎゃあぎゃあゆわれたのは、私のなかのある種のものへの反感を確実に育てたし、戦争の悲惨な被害みたいなものを見せられて「素直な感想」書けといわれ、皮肉なこと言ったら、「心が汚い」とかなじられたのはすげぇトラウマだったしね。昭和天皇のものまねしたときは、バカウケだったけど。まあこのくらいのネタで、すべてを説明しようとは思わないけどね。
 大学教育では、神々のパターン、論理の組み方のパターン、話のおとしかたのパターンを示して、それをふまえた上でものが言えるようにするみたいな行き方もあるし、そういう風にものを教えたいと思っている。特定の結論を強要する先生もいるだろうけど、追従するような答案を軽蔑心で書いて優をもらうのも、敢えて挑戦しにいっておとされるのも学びだろうし。岡大の最初の教え子のことを思い出す。『若者文化のフィールドワーク』にも書いたネタだけど。良寛ピストルズして前期落とされたやつに「夏休みに良寛読んでぼかぁ心が洗われたとか書いてみるのもパンクじゃない?」と言って、渾身のレポートを書いたら絶賛されたということもあったし。ただ小学校ではどうなるんだろうか。生きる心棒をつくる場だからね。実はそんなに悲観はしていない。実践記録などを読むと、感銘を受けることの方がおおい。みんながそういう教育をできるようにするのは、まあそっち方面の人たちのお仕事だろうし、素人がとやかく言うことじゃない。ただ総員の枠組みの泥縄についてだけは、ちょっと言ってみたくなった。