90年代と理性の憲兵論

 今日は午後から大学で人権研修。吉武清實先生を講師に迎え、ハラスメントなどに関するお話をうかがった。この問題について、私は、「グレーゾーン」のものについて、第三者などの手助けを上手く活用しながら、コミュニケーションを活発にし、注意しあい、誤解やすれ違いをただし、気持ちよく学びあえるようにすることが大事だと思っていた。そうした私には、共感するところの多い話だった。マニュアル化された知識、ノウハウなども多数提示され、参考になることも多々あった。その後は卒論指導。性自認の問題を主題とした卒論。どちらかというと、いろいろな社会的実践のなかで話を聞くことを中心にしてきた学生で、詳細なフィールドワークをメインにすえるようだが、話をするたびに、「マイナリティとアイデンティティ、その留保」という論点について議論が深まってゆき刺激的である。いうまでもなくちょっと私の手にはあまる主題で、一通りの地ならしがすんだらどなたか識者に相談したいと思っている。
 メシは坂本屋@西荻で喰った。定番カツ丼・・・でも重いかなぁ、などと思って行ったら、定食がメンチカツだった。滅多に出ないと、アドマチックでも紹介されていたメニュー。毎日通っても月に一度しか出会えることのないメニューなのである。ふらっと『スペリオール』を読みにいって出会えるとは僥倖という他はない。美味しかった。食休みに、ネット見たら、例の極楽ネタでネットがすごいことになっているというのでみたら、例のウプサイトに加藤の号泣映像があるという。で、まあ私も当然のことながらみた。私は、加藤浩次のサッカー解説を楽しみに見ている。本当にサッカー好きなんだなぁと思うし、見ていて楽しい気分になるからだ。『クロサギ』で、シロサギ役をやったときは、ちょっと意外だったけど、それはそれで人としての奥行きを感じたりもした。だから、号泣しているのを見て、ちょっとかわいそうだなぁと思った。で、発端よりのニュースなどを2ちゃんなどでみてみた。そして、「加藤はこういう見せ場は絶対外さないよな」「出演前気合い入れまくったんだろうな」というやりとりを見て思わす「わ!」とゆっちゃった。ぶっ飛んだ。私のような平凡な発想では浮かばない。この二人の一期一会のネット瞬間芸はもはや文学じゃんとか、思っちゃったよ。
 90年代半ば若者論について研究していた*1ころに、一冊の本を出したことがある。『若者文化のフィールドワーク』という本なのだが、そこで私は次のように書いた。「確信に満ちたしたり顔をさらすような自足だけは、避けなければならない。イデオロギーの時代を経過することにより、「理性の憲兵」面したものには、とことん懲りているのが90年代の文化なのである」。これが稲増龍夫氏の目にとまり、宮台真司氏のオウム対策論、鶴見済氏の「アタマをチューニングして楽ちんに生きよう」という議論とならべて、紹介いただいた。稲増氏の議論は、オウムは大丈夫かという議論に対し、「別に心配したこともない」と言おうとしたものであったように思う。
 なんでんかんでん終わっちゃってたりらりら〜んな現実をクールに見つめる二人に対し、私はなお残滓を残し、随所に昔風の気恥ずかしいような言葉が見られると稲増氏は評されている。この気恥ずかしさは、フィールドワークした若者たちと私が響きあった一つの部分として欠かし得ないものだったし、それは地方がゆえに遅れていたということではなく、先につながる要素もそこにあったはずで、もしかすると反論すべきところだったのかもしれないが、いわれてみるとそんな気もして、やっぱだめだなぁおれはと、問題を突きつめることもなく、「そうっすね」と言っておどけて誤魔化し、おどけ疲れて家で「まなざしの地獄」や「死にがいの喪失」をこっそりひらいて、何度も読んだそれらの本に読みふけり、面白くてたまらないと思っている自分がイヤでイヤで萎え萎えになり、放りだしてしまった。
 この頃と今では、それなりのギャップがあるように思う。まあそれも、『限界の思考』のアイロニー問題の請け売りっぽくはあるわけだけど、ネットの憲兵が理性の憲兵なのかどうかということが若干きにならないこともないのである。(小?)正義の憲兵であるとは言えるのだろうが。愚にもつかないことをなんでいうかというと、成蹊大学で非常勤でやらせてもらっている社会心理学のテストが、90年代以降の日本の社会心理について社会学的に分析しろみたいなアドバンス問題みたいなことを出していて、どう見てもそれでアクセスしてきている人たちがいるからだ。ここに書いたものを読めばわかるように私自身もあたまがウニ納豆なのである。で、まあクリアカットな答案に期待したいのである。もちろん答案とて、パクリはしないから。
 

*1:今も授業などではこの主題に触れることはかなりあるが、直接にはこのところ研究していない。