奈良県の少年の事件について

 早朝において、ウチウチ状況になってしまっていて、江畑謙介さんを久しぶりにテレビで見る。江畑さんの博学にはいつも感心するし、アエラオサーンのファナティックな語りに対して、淡々とテクニカルに語る姿勢には敬意をもっている。のだが、いつ見ても−−髪ではなく−−額のほうがヅラにみえて笑ってしまう。しかし乱れウチで怒り狂う人もいるんだろうが、中国と米国のしたたかさをじっくり読まないと、利用されてポイなんじゃないかなぁ。うーん。
 奈良県有数の進学校の生徒が父親への恨みから家に火をつけ、母親ときょうだいが一酸化炭素中毒で亡くなった事件は考えさせられるところが大きい。私立医大出身の父親は、子どもを旧帝大クラスの医学部に合格させようととしていた。ガシガシ殴ったりしながら、スパルタで勉強させていたという。勉強しないとゲーム機をたたき壊され、サッカーのワールドカップも見せてもらえず、勉強部屋はICUと名づけられていた。メディアの喰い付きどころはこんなところであろうか。こういうことは、高度成長期にはよくあったことである。家庭教師先でもよくみかけた。戦後社会において、所得水準が上がると、大学に手が届かなかったような人びとにも進学のチャンスがまわってくる。日本人は高度成長の分け前を多く教育投資に回した。学歴で苦労した親たちの怨念は凄まじい教育への執念となる。
 私の家も似たようなところがなかったとは言えない。父親は、祖父の左官修行について行けずノンキャリの警察官になった。警察の世界はよく知られているように凄まじい学歴社会である。20代の課長に、40代の父親は頭が上がらなかった。「現場のゲーム」では負けることはないのに、「出世のゲーム」ではまったくお話にならない。行政の世界は、法律を作って、運用する世界で、それに長けたものだけが、階段を上ることができる。金もないのに私立に入れたのは、もちろんしつけが一番の理由だが、入れてみればそこそこ欲が出てくる。祖父は猛反対で、死ぬまで勉強がなんだとかゆっていて、はじめて大げんかして私立に子どもを入れた。婿養子で、修行について行けなかった父親の気持ちがどんなものであったかは、今では痛いほどわかる。
 ぢいさまは、職人の子どもは本など読むなというような人だったわけだが、おやぢのほうはやっぱ子どもにリベンジさせたかったんだと思う。成績の動静に五月蠅かったし、怒鳴ったり、時には暴れてモノに当たり散らしたりしていたこともある。一度などは、私と弟で作ったプラモデルをぶちこわし、私はさすがにきれてアタマから水をぶっかけてやったこともある。柔道三段、逮捕術もできるから、タイマンはってもかなうわけないんだが、寝込みを襲ってぶん殴ってやろうとか、思ったことがないとは言えない。しかし、実行しなかったのは、私がチキンだったというよりは、反発はしていたが、それなりに心情は理解していたからではないかと思う。二部屋しかないから、しょっちゅう顔をあわせて、言い合いしたりして、ガス抜きをしていたし、ぢいさまやばあさまや母親がいろいろ話をすることで、怒りが建設的に水路づけられたこともある。父親は一生懸命仕事をする人で、その姿を見たことも大きいかもしれない。ノートの付け方や、勉強の仕方をいろいろ教わった。小学校しか出ていない父親だが、警察学校で学んだ方法などから学ぶことは大きかった。
 高校一年の時に水泳部にはいると言って、反対されなかったことでかなり見る目が変わった。小学校の時は中区の代表として市民大会に出た(ビリだったけど)くらいだったのに、溶連菌感染症で中学時代は水泳部にドクターストップがかかった。高校に入る前に許可が出たので、もう選手としてはダメだろうが、やってみたいと思って入ったのだ。中学でスポーツをやめて受験をする人も多かった。でもなんかもやもやがあって、水泳やってオトシマエつけたかった。選手としては悲惨であったが、夏休みも毎日練習に行った。別にそれで怒られることもなかった。それでちょっと見直した。あと、心理学に興味をもって人文系の学部志望になったときも、たいして何も言われなかった。大学院に行くときも反対されなかった。留年して、進学をあきらめようとしたときなどは、「勉強したいなら何年留年しても受けろ」とまで言ったのでビビった。
 いろいろな幸運が重なったと思う。変数がいくつか変わったら、殺意が芽生えていたかもしれない。奈良の少年は、「家は父親の存在そのものだった」と言ったという。なんとも思想ヲタ垂涎な証言だが、そこまで憎しみのゲームが局所化され、純化していったことは、実に不幸なことだと思う。