おとな学部と就職少年院

 くだんの殺人事件で、こども学部こども学科が一躍脚光をあびている。「こども」を冠した学科は、一定の市民権を得てきているように思うが、学部となるとそれほどは多くないだろう。少子高齢社会において、さまざまな工夫が行われ、大学づくりがはじまっている。伝統的なウルトラ保守的なアカデミズムの美学に多少なりとも触れた経験を持つ者には、怒髪天な名前のものも少なくない。私もそんなふうな美学の洗礼をそれなりに受けた経験を持つから、カタカナ学部はちょっとなぁと思ったりもするし、漢字の文字数の少ない学部のほうが(・∀・)イイ!!と思ったりするところが、本音の部分ではある。まあしかし、限られた資源配分のなかで、創意工夫されたものには敬意をもつべきであるというふうに思っている。変わり雛もどきというような形容は甘んじてうけるという覚悟が昨今の傾向にはうかがえるし、またバブル期の増設ラッシュのころの安易なもの−−国際情報環境学部のようななんでもかんでもつけとけばいいんだみたいなもの−−は、さすがに最近は少ないし。
 うちの大学でも少子社会を前にして、さまざまな工夫が行われている。その詳細は、もちろん守秘義務があるので、一切語れない。また語りたくもない。言えることは、リベラルアーツ教育の伝統、積み重ねてきた研究教育の良さをどのように理念化し、将来構想を描くかということが重要だということだけである。本当は系統的なツリー構造はできるだけファジーにしておいて、さまざまな研究教育の試行が行うことができるような最低限の変数のみを示し、それを運用してゆくことにより、リゾーム的なつながりがうまれ、ワクワクするようなアジール的な学芸が現代的に問い直されるようなフレームワークがつくれれば一番よいのだろうけど、理念のなかみやツリーの詳細を示さないと、具体的な構想でないだとか、玉虫色だとかの批判を受けることになる。100年以上も長持ちするようなユニット、あるいは古代より伝統的に続いてきているユニットの味わい、古いものの良さを尊重したい立場からすれば、矢継ぎ早のスクラップアンドビルトが要求されているような気もするし、また利権や権限やなにやらあれこれ邪推したくもなってくるのである。
 と柄にもなく真面目にいろいろ考えることが多くなってきたが、結局逢着したのは、あいかわらずドキュソなギャグであった。人間づくり、教養ということだったら、「おとな学部」もありかなぁみたいなこと。もちろんギャグですよ。でも、もしかしてと思って、ググってみたところ、「おとな学部」ですと、「夢大学おとな学部」みたいなのがヒットする。「大人学部」だと、ダイレクトなヒットはない。「オトナ学部」だと、千葉のAlettaとかゆうペーパーに「Aletta CHIBA 3月号ダイジェスト 淑女の手習い・オトナ学部 ...」というのがあることがヒットする。「ちゃんとできる人検定試験」みたいなこともできるようだし、そのうち「愛国心検定」とかもできるに違いない?から、先鞭をつけてやるところがないとは、言い切れませんでしょうね。しかし、カタカナ書きするとなんか違うモノを想像してしまいますね。つまり「大人のコンビニ」みたいなもの。
 専門特化した「流線型」の学部学科ができることは、それはそれで大事なことだとは思っている。ただ、横浜市大のくだんの一件の展開のなかで議論されたようであるが、実用的なリベラルアーツというのは形容矛盾なのである。岡大の教養部に11年、現任校に10年勤め、リベラルアーツという議論をイヤになるくらい聞いてきたし、その良さというのもじんわり感じている。しかし、なかなか伝わりにくい。そんなことを考えるとき、いつも思いだすのは、中等教育のことである。いわゆる受験ヲタといわれるような人たち(親御さんなども含めて)のなかには、「受験少年院フォビア」のようなものが厳然と存在するように思う。私の出た学校は、やたらしつけが厳しくて、早朝や放課後の補習もあり面倒見がよく、「塾いらず」などと言われていたのだけれども、一方で「受験少年院の類だろ」などと新興私立独特の弱みを指摘されることも多く、12期生の私はコンプレックスをもっている。私たちのころは「出身高校を言いたくない高校日本一」とかゆうようなまことしやかなでままであった。学校は、「東大受験にこだわるわけじゃない」などと言って、それがまたいろいろ言われたりもした。最近はそれが堂々言えるようになり、また私塾のような教養講座みたいなものも行われ、様変わりしていると聞く。それでも、やはり相対的な問題は残存しているらしい。
 超一流進学校は、受験一辺倒ではなく、それなりの校風と風格をたたえたところがほとんどであるように見える。コンプレックスから若干かたよったみかたをしているかもしれないけど、そう私には見える。そういうところの出身者は、異口同音に味わいのある知を語る。もちろん、放課後を支える予備校の存在もあるのだろうが、それもまた風格の一環をなしているようにも見える。そして、それは大きな説得力をもっている。大学の場合も、それぞれのポジション(地理的、意味的)などを顧慮して、いろいろ逝くべき道を模索する。そのなかでリベラルアーツというのは、それなりに説得力をもっていたはずだ。今大学に求められているのは、単なる「就職少年院」になれということだけではないだろう。「就職少年院」として、結果を出すことは、一つの選択であり、悪いというふうには思わない。このようなギャグを言うこと自体、冒涜なのかもしれない。
 私がリベラルアーツを語ると言うことそれ自体が矛盾なのだと、かつての学生は言った。でも考えてみると面倒見の良い大学というのも形容矛盾な気もする。お医者さんはメガネドラッグが出だしたころ、あそこで売っているのは医療器具ではないと批判した。メガネドラッグも、それを認めた。・・・などと、考えてしまうのは、私が大衆論をやっていたからなのかもしれない。日本中どこの大学に行っても、大学のキャンパスを歩くと、いろんな「思い」が見えてくる。いろいろな「思い」を感じながら、自分の大学のことも考えてゆきたい。