「携帯をもったサル」と「ブランドをもったポチ」

 朝起きたら昼だった。疲弊しているんだろうか。朝生をみてしまったから寝るのが朝方だったのだ。軍事力や情報力に関する「現実論」に対して、非武装中立などの言説はボコボコにされていたようにも見える。「じゃあ○○をどうするんだ?」「誰がやるんだ?」と畳み掛けられたじたじにみえないこともなくなんともにんとも。外交的なゲームの「現実論」を実現するためには、いくつかのゲームをクリアしなくてはならない。そうなると、「じゃあ○○をどうするんだ?」「誰がやるんだ?」という問いはま逆に畳み掛けられる可能性もある。ただそれは「また別のお話」。やたら印象操作的な発言ばかりが印象に残り、後味がものすごく悪かった。でちょっと神経が高ぶって寝付けなかった。
 そんなわけで、関東社会学会の例会も基礎研も間に合いそうもなく、じゃあ原稿でも書こうかと思っていたのだが、筆が進まないので池袋まで行くことにした。西口なら関東社会学会、東口なら基礎研だ。前者は修論の検討会という新企画で、とてもよい企画だと思うし、院生や学部生に接する参考になるし、コメンターとかのメンツをみても、そこそこのドラマが期待できそうな気もしたのだが、はっきり言ってエンタテインメント志向になっている自分が不謹慎に思われ、基礎研のほうに行くことにした。

社会科学基礎論研究会
【研究発表】
1. 渡辺 彰規(東京大学大学院)「1980年代における社会理論の変化の検証   ――P.ブルデューとM.フーコーにおけるゲーム概念を題材として」
2. 尾形 泰伸(武蔵大学非常勤講師)「後期近代における情報と実践知の地平  ――A.ギデンズの権力論を手がかりに」(仮)
3. 浜島幸司(上智大学大学院)「若者の社会意識分析から何がみえるか」

 発表者のご都合で、報告は1→3→2の順番で行われた。第一報告は聞けなかったが討論には間に合った。村上泰亮山崎正和を80年代にけっこう熱心に読み込んだ私としては、第一報告の議論はかなり面白く、問題を現代的に考える手がかりとしてフーコーがあること、ブルデューフーコーも、エリアスやゴフマンをビシッと読んでいたということなどは、興味深く拝聴した。第三報告になったギデンズは、テキストにしていることもあり聞きたかったのだが、ちょっと所要ができて途中退席せざるを得なかった。途中で部屋を出て行く人がいることは、授業でも報告でもいやなものだ。本当に申し訳ない限りだ。
 で、若者論の報告。「実証の人」としてのオトシマエをつけつつ、理論的問題提起も行って折り合いをつけていた。質問は報告に即してというよりは、大きな文脈で行われる傾向があったが、興味深かった。印象に残った議論は、「若者=ダメ」論がなぜ出てくるかみたいなことをめぐるものである。若者はダメじゃんに対して、ダメじゃないじゃんという議論があるという基本構図に対し、ダメじゃんとなんで言うかみたいなことを言うかということに踏み込んで行くことを示唆しているように思われたのだ。
 「ちゃんと生活できる検定試験」みたいなものをつくったり、「愛国心」を評価するみたいなことをしたり、−−象徴天皇制をおちそちそに喩えて先生にボコボコに殴られた私なんかは最低点になるんでしょうかね−−、あるいは少年法を厳しくしたり、さらには徴兵制とかで若者を軍事教練するみたいなことになるのかもしれないけど、それでどうするんだろうか。総動員のゲームと選別動員のゲームがごちゃごちゃになって、勝ち組になったって、ヴェブレンのいうセールスマンシップにどっぷりつかったブランドをもったポチなんていうんじゃ、統治論に立つにしたって、国はよくなるのかよとか思っちゃう。日本人が、手先が器用で、勤勉で、我慢強くて、いい職人がいて・・・みたいな国際競争力があったのは、そんなこととはまったく別のことかもしれないんじゃないかと思う。逆に言えば、「若者はダメじゃないもん」という議論も何か論じたりないところはあるのじゃないかとは思う。けっこういい思い付きかもなどと思ったら、熊沢誠の著作を思い出して、萎え萎えだった。数理計量的に潜在的因子を取り出す手法はあるけど、数字のゲームになっちゃうかもしれないから、抑制して、クロス集計と独立性の検定だけやっているという報告者のことばに、独立性の検定くらいまでしかできない私は勇気付けられたのだが、そのあとすぐ報告者が「学部生でもできるやり方でやった」と付け加えられたので、また萎え萎えになりますた。w