都留重人氏逝く

 都留重人氏の訃報をネットでみた。私が大学入学した当時の学長である。パーソンズが学んだアーマストカレッジから、ハーバード大学にすすみ、そこで博士号をとった。優等賞とったんじゃなかったけ?ノーベル賞経済学者や国政の根幹と関わるような研究者たちを、サムエルソンくん、ガルブレイスくん、スウィジーくんとかゆっちゃったりするすげー人だっつーことだけで仰ぎ見るというカンジで、私は環境問題のサークルにいて、千葉県の臨海地帯の「調査」に何度もいったわけだけど、『公害の政治経済学』などの読書会をしたりした。当時出はじめた著作集をなけなしの金で揃えた学生を何人も知っている。そのくらい影響力があったということだと思う。この本も、そしていくつかの経済学の入門書も、正直都留重人の本は、読んでも、言っていることがあっさりすっきりきれいすぎて、ひっかかりがないというか、萌え〜というほどではなかった。ただ伝記好きな私は『師友雁信録』(講談社学術文庫)だけは例外的に面白く、いまだに時々読んでいる。サムエルソン、スウィジーといった友人、そしてもちろん恩師シュンペーターなどについての話を、何度も何度も読み返し、学問の糧としてきた。最初に読んだころは、いつか留学したいと思っていたんだなぁ。南博、鶴見俊輔などいろいろな人々のアメリカ留学記を読んだ。南氏や、都留氏がいる大学で学びたいと志望大学を決めたんだった。「受からない」と受験指導の先生に言われ、「受かるまで受けるのが必勝法」などとやり返した。純粋な情熱だと思う。しかし、なんともちんけだ。w
 当時の都留氏は、『公害研究』などの雑誌を出して、リーダーシップを発揮している人というイメージが強かったように思う。ただ、政治と学問をめぐるスタンスについての強いこだわりのようなものは、ガツンときたし、深い影響を受けたように思う。政治オルグに来たとあるセクトの学生と議論し、同調しなかったわけだけど、「要するに都留さんみたいな立場だね」と言われ、ちょっと得意な気持ちになった記憶がある。ただ「都留さんみたい」というのは多分に皮肉を含んでいたんじゃないかとは思う。当時の母校には、全国の大学でもめずらしい学生の学長選挙参加制度があり、文部省の指導を受けていた。大学執行部とすれば、そのような制度があることでいろいろな不利益を受けているので、なくしてしまうという気持ちと、別に学生運動の影響前からあった伝統的制度になんで文句があるんだという気持ちと相半ばしつつも、「そのうち廃止します」とのらりくらりしていた感じなんだけど、かたちに示せということで、メモを出さされた。出した学長が都留氏で、「都留メモ」というのは、学長選挙の基本用語とも言えるものだった。まあそんなことで、「都留さんみたい」というのはそういう皮肉があるわけである。あと、寮に講演に来た羽仁五郎が、『クリオの顔』の話などをしながら、赤狩りとノーマンとのかかわりで都留重人をずいぶん批判していて、一同ショックを受けたこともあるかな。しかし、私は、というかわれわれサークルのメンバーはマーシャルの「暖かな心と怜悧な頭脳」と同じ意味に勝手に解釈して胸を張った。

 旧経済企画庁(現・内閣府)の前身の経済安定本部で、第1回の経済白書(現在は経済財政白書)の執筆責任者を務めた経済学者で日本学士院会員の都留重人(つる・しげと)さんが、5日、呼吸不全のため死去した。93歳だった。葬儀は近親者ですませた。偲(しの)ぶ会は3月6日正午、東京都千代田区一ツ橋2の1の1の如水会館。自宅は非公表。喪主は妻正子(まさこ)さん。
 東京都生まれ。戦前、学生運動によって旧制高校を除名された後、渡米し、ハーバード大で学び、1940年に経済学博士号を取得。太平洋戦争の開戦とともに帰国。47年に経済安定本部の総合調整委員会副委員長(今の事務次官に相当)に就任した。
 初の経済白書「経済実相報告書」は、片山哲政権下の47年7月に発表された。「国も赤字、企業も赤字、家計も赤字」という戦後経済の実態を国民に示した。
 退官後、48年に東京商科大(現・一橋大)教授になり、72〜75年に学長を務めた。「リベラルな社会主義」という立場で公害問題などで論陣を張り、70年代から80年代にかけ、当時の社会党など革新陣営から東京都知事選への出馬を打診されたが、固辞した。
毎日新聞) - 2月7日19時34分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060207-00000075-mai-peo

 2006年−93歳=1913年生まれかな。とんでもねぇキャリアだわな。偲ぶ会逝ってみたい気もするけど、まあ場違いな気もするデス。w