お茶づけ

 永谷園の創業者が亡くなったというニュースをやふうで読んだ。まだご存命だったのかというカンジだが、創業の存外な新しさに驚く。チキンラーメン江戸むらさき、そして永谷園のお茶づけ海苔、渡辺の粉末汁粉も思い出す。コマーシャリズムにのって、化学調味料バリバリの製品がぶいぶいゆわせはじめた頃のことだ。「冷やご飯はお湯あらいして食べてね」「大きめのお茶碗でご飯は軽めに」みたいなことが書いてあり、お湯をぶっかけて、「サラサラパリパリ」などと言いながら食べたのも懐かしい。岡山時代金がなくなると、ほかほか亭でライスだけ買ってきて、お茶漬けをよく食べた。またスナックとかで、お茶づけ海苔の上に梅干しのせて、お新香つけて500円〜1000円とるようなところもあったよなぁなどと思う。

「お茶づけ海苔」開発、永谷園創業の永谷嘉男氏が死去

 永谷嘉男氏(ながたに・よしお=永谷園創業者)昨年12月28日、心不全で死去。82歳。告別式は近親者で済ませた。「お別れの会」は後日行われるが、日時は未定。喪主は長男、栄一郎氏。
 戦後復興期の1952年に、インスタント食品の先駆けとされる袋入りの「お茶づけ海苔」を開発し、当時としては高価な1袋10円で発売。年間2億7000万袋を販売するヒット商品に育てた。(読売新聞) - 1月12日0時17分更新

 CF的にはチキンラーメンやお茶づけ海苔のものは覚えていない。出前一丁♪とか、札幌札幌札幌一番♪なんかは覚えているし、SABU北島の「鮭茶漬けぇ〜♪」なんかは覚えているんだけど。桃屋三木のり平が代名詞みたいになっちゃっていて、渡辺といえば林家三平「おもちも入ってべたべたと、五人で食べても五十円安くてどうもスイマセン」。渡辺はどうなったか知らないが、他は意気軒昂だよね。お茶漬けも、いろんなぜいたく茶漬けがでたものの、あのあんちゃんがガツガツ喰ってうめぇってカンジのCFなどで他の追従を許さないというカンジ。どこのコンビニにもある。
 お茶漬けとかはたぶん「おかずがない時」の間に合わせのものだったんだろうと思う。今はおかずがないなんてことはあまりないんだろうけど、高度成長期なんかはわりにあったんじゃないかと思う。ご飯一膳目でおかずがなくなると、ふりかけとか、お茶漬けってかんじだった。そーいやふりかけなんて、最近は錦松梅とか、高級佃煮のあみとかしか喰わなくなったなぁ。w めちゃくちゃ懐かしくなってきた。うちは、のりたまよりえびたまが好きだった。めったに売ってなかった。つーか、駆逐されたカンジ。あと、たらこふりかけというのを、お茶漬けにして喰っていたな。ところが途中でたらこじゃ高いので、たらの身かなんかでつくった模造品が混ざってまずくなり、お茶漬けにすると泣きそうにまずくなり、買わなくなった。今考えると一番笑えるのは、丸味屋かなんかのスキヤキふりかけだわな。それだけ肉が高級だったということだろう。私は異様にまずいと思ったけど、弟が好きでよく買った。まあしかし、ふりかけは瀬戸内のじゃことかの乾燥させたのが美味いというのが、私の実感です。
 それにしても、お茶漬けの次は松茸の味お吸い物を出したわけだけど、このねらいがあまりよくわからないよね。しかし、なんか高級料亭の味を一般家庭にみたいな股ぐら一本筋とおった思想のようなものを感じないことはないなぁ。私にとって、松茸の香りというのは、あのお吸い物とイコールだからね。だいたい松茸なんて、小学校の時に一回喰っただけで、あとは就職するまで食べられなかった。就職して土瓶蒸し喰った時の感激は忘れられない。「やっぱりホンモノは美味いッスねぇ」みたいな。一度学生の親かなんかが、おせわになりましたとかゆってかご一杯の松茸をもってきて、裏山でとれて無料だからとかゆったので、学生の親とかからものをもらったことなかったけど、もらって焼いてモリモリくっちまったんだよな。「さすが松茸の本場」とかゆってさ。あとで「買ったらいくらすると思う」と言われてビビリますた。
 永谷園の製品には浮世絵の五十三次の絵が一枚ずつついていて、集めると五十三次のセットをくれるんだよね。うちには揃いのがありました。こういうのは意地でも集めるというのがうちの流儀なんだよね。他には、森永チョコボールの金のエンゼル、銀のエンゼル5枚と二通りのやりかたで「おもちゃの缶詰」もらったりしますた。潜水艦のおもちゃとか、風呂屋で盗まれてむかつきますた。