キモイ考

 昨日の夜は、一人ゲストも迎えて、新著企画会議、とは名ばかりのメシを喰う会。わっかめしの店なつめ@国立。学生時代奨学金とかがでると、二月に一度くらい行っておおきな焼き鳥を食べた懐かしい店である。メニューに焼き鳥がなかったのできいたら、あるけど小さくなったとのことだった。しかし、同じようにジューシーで美味しかった。受講者の人がアルバイトをしていたのでびっくりした。
 そこへ向かうため、研究室を出て、研究棟下に駐輪していた自転車に乗り、ちょっと晴れやかな気分で歌を口ずさんでいたら、むこうからスポーツの試合にむかうみたいな学生が数人歩いてきた。歌を聴かれたかと思って、一瞬口がゆがみ、そしてすれ違ったら、うしろから「キモイ」「キモイ」「キモイ」と口々に言うのが聴かれた。まあ、中学生、高校生ぐらいのとすれ違っても、東京では、すれ違いざまにこういうことを言われたり、うしろで笑い声がしたりすることは珍しい。まだ異形なものへのなんやらかんやらが残存しているところや、シンプルな価値序列に拘泥している率も高いところなどでは、すれちがいざまに「ククク」という押し殺した笑い声が聞こえたり、すれちがったあと笑い声がしたり、あるいはまたなかにはすれちがったあと念入りに追いかけてきて、顔をのぞき込み、そしてぎゃはははははと笑うような輩までいた。子どものころから、それは経験してきているし、ガン飛ばしてビビらせたことも何度もある。しかし、今の学校では、そんなストレートに、聞こえよがしなことを言う、いささか洗練を欠いた人はまずいない。もちろん、面と向かって「その眼鏡キモいからやめたほうがいい」などと指摘する輩はいるし、また細かく観察してなんやらかんやら卓抜な陰口を叩いていやがるのが耳にはいることもある。まあそれはそれなりに洗練されたやり方だ。対して、昨日のはあまりにベタで虚をつかれた。うちの学生は私のことを知っているから、他校から試合に来てはじめて見た人なのかもしれないとは思った。
 言われたことをここに書くくらいだから、かなり堪えているのだろうとは思う。笑いという水路づけを、自己防衛として確立したのは物心つく前だったと思う。だから、太宰治の『人間失格』で例の「わざわざ」を読んだときも、どう見ても優等生なモテ系の少年がそんなことしたとしても、ぬるいってカンジはぬぐえない代なぁと、はじめは思った。まあしかし、もしかするとその方が懊悩は深いのかと今では思わないことはない。アホガキでデブガキでキモガキがコメディアンぶるのはごくふつうのなりゆきだからだ。
 それにしても、切っ先の鋭いことばは、柔軟に笑い飛ばし、受けとめたとしても、ボディーブローのように効いてくる。多湖輝氏が、心理学者になったきっかけのエピソードを思い出す。ターバンというあだ名の同級生の話だ。ターバンは、病気かなにかで頭髪がなかった。でもって、頭にターバンみたいにして布を巻いていた。彼はひょうきんな人で、ターバンとゆわれて、おどけてみせたらしい。でもってクラスの人気者になった。彼なら何でもゆえるなどと、みんな信頼して、いろんなことを言って楽しくすごしていたらしい。そんなある日突然ターバンは自死した。みんな驚いたらしいが、遺書の内容を知って茫然としたという。ターバンとからかわれたくなかったという叫びのようなものが、連綿と綴られていたというのだ。多湖氏は自分たちの無邪気を恥じ、心理学者を志したという。私は、規範的に市民面をしてことば狩りをしたりするのは、どうしても性に合わない。むしろグレーゾーンはゆるやかに注意し、話し合うことの方が重要だと思っている。人権派になることは、完全無欠になることではないわけだから。
 今どきの学生がどうのこうのと言うつもりはない。昔のほうがよほど強暴だった。農村にしても、下町にしても、強暴なことばが人を差別してきた。若いころのビートたけしのブラックな物言いも、おそらくは下町の口の悪い連中の口調そのままだと思う。下町をサンクチュアリにするのは、愚劣な意見だとは思う。しかし、私が見聞きしてきた世界は、口は悪いが異質なものを受け入れるキャパがあったと思えて仕方がない。ガキのころずいぶん「一見差別的」な言動を耳にした。「あそこの娘はクロンボのオンリー(ステディな愛人)になっちゃって」とか、「うちのはフィリッピンと結婚して」とか、チョーセンがどうだとかなんだとか、差別用語炸裂で言いたい放題言っていたけど、なにかそこに暖かみがあったと思うのは、ノスタルジーばかりではないと思うのだ。残酷と人情の併存。
 「キモイ」のなかに、そういう要素がないとは言い切れない。たたとえば『アーロン収容所』の女性士官のように、私を路傍の石扱いしたわけではないわけだし。ウケているとも言える。そんなわけで私は、南海キャンディーズのクレバーなキモさにあこがれている。またキモイが、汚れだけでなくなってきているお笑いの現状に注目している。でぶやの一歩先をつくる人が出てこないかを期待している。