社会学的想像力の周辺1:奇妙な賞賛

 ちょっとミルズ本の原稿が滞っていて独白的になっている。かといって原稿そのものをアップするわけにもいかない。講義で話しているうちにまとまることもあるんだが、今は適当な講義もない。っつーことで、ブログで周辺ネタかましてみることにしますた。読む人を想定して書くことで、自閉的悪循環がほぐれればと思うのであります。書いていることはだいぶちげーますよ。
 9.11を発端とする「テロとの戦い」、それに続くアフガニスタンイラクでの戦争などが続くなか、巨大台風カトリーナアメリカの深南部を襲い、アフリカ系ほかの貧困層を中心に重大な被害をもたらした。防げたはずの水害の危険を放置したまま、民主主義を旗印に戦争に奔走していたアメリカ政府の対応のまずさを非難する声があがりはじめ、民衆の怒りは頂点に達し、ブッシュ政権の危機までが云々されるようになった。ミルズの社会学は、こうした「民衆の怒り」と親和的である。ミルズは、「誠実」に社会の現実を見つめ、「民主主義とその敵」という図式が一人歩きすることを批判した。そして、そうした批判責任を担う社会学者としての責任倫理を探求した。
 『社会学的想像力』で展開されている社会学批判は、「多様性を重んじる世界に冠たる民主主義国家アメリカ」という自負の図式をなぞり返すだけの知性に向けられている。批判されているのはパーソンズらの社会システム論とラザースフェルトらの計量的な社会調査である。そして、システム論という理論社会学と社会調査という経験社会学を両輪とするオーソドックスなアメリカの社会学体系に批判的な人々の共感を呼ぶ一方で、システム論や社会調査を重要と考える人々の反感を買った。難解なパーソンズ語で書かれた『社会体系』をまともな英語に訳してゆき、粗末ななかみを喝破するというスタイルで書かれた著作は、アメリ社会学の正統に批判的な人々からすれば、痛快な代弁の書と言うことができるだろう。
 しかし、注意しなくてはならないのは、けっしてミルズがシステム論や社会調査を否定するわけではないということである。また、ラディカルな社会批判者に盲従する立場に立つわけでもないということにも注意すべきである。なにかの立場に立つことで、特恵が得られるという立論を拒否していたと言うことすらできると思う。「よりどころのない立場」という論難をミルズはあえて引き受けた。面白いことに、ミルズは、保守主義的な立場にたつニスベットのような社会学者にも評価されている。それはなぜか?システム論の用語、社会調査の用語をいくつか習得すると、標準化された方法にそって公式通りに業績を量産することができる。ミルズの批判は、社会問題と真摯に対峙すべき社会学者が、このような空疎な業績づくりゲームに没頭しているところに向けられていた。モラリスト的な自省性という点で、保守主義と通じあう部分がミルズにはある。人工言語の様々な意匠を相対化し、伝統や慣習や自然言語の規則性に目を向けることでいっそう普遍な地平が開示する。その判断の意味あいが、より批判的であるか否かで、保守主義とは一線を画すとは思われるのであるが。「不協和なパースペクティブ」、新奇なアブダクションに向かって開かれているか、そこにミルズは「倫理的なもの」を見出していたからである。
 マルクス主義共産主義が今よりもずっと影響力をもっていた70年代初頭には、マルクスの著作に出てくる用語を駆使して、華麗にものを語る若者たちがいた。はじめてそれを耳にしたとき、難解なことばの乱舞に驚き、感心する。私も、先輩たちの感嘆し、羨望のまなざしをおくっていた。すると、ある先輩が「こんなふうにものを語るほど易しいことはない。10個も用語を覚えれば誰でもできる。問題はその後だ」と教えてくれた。まさかと思ったが、先輩の言うように難解なことばのゲームを体得するのにたいした時間はかからなかった。そして難解なことばを浴びせかけ、人を圧倒することに快感を覚えるようになった。そうした貧しい言説を批判することがミルズの意図するところであったと言える。どんな思想的な立場に立っても社会学的想像力は問題になる。「民衆」を、金科玉条の免罪符として振り回すことも例外ではない。逆に言えば、社会システム論や社会調査法は、全否定されたわけではない。システム論のパラダイム批判や、量的な社会調査批判の論脈でミルズがもてはやされたことは、まことに不幸なことだと言わなくてはならないだろう。