ワイドショー選挙

 朝生をみているわけだけど、田原さんはワイドショーみたいになっちゃっている選挙はだめだと罵倒し、マスコミがだめ、特にワイドショーがだめ。TBSの椰子がだめ。今日は全部言うと、猛烈エクサイトしている。新党日本旗揚げでは、およそそんなことをするとは思えない篤実な風貌の小林前議員までが、「新党ニッポン!」とか叫んでエイエイオーみたいな、浮動票好みのキレのいいパフォーマンスをしている。広島では、「日本を変えるのは誰だぁ〜〜」「ホーリエモンだぁ〜〜」などとやって、オールブラックスのパフォーマンスみたいのをしている。新潟の方では、ハーバードで研究しているお医者さんにして法律家の人が、なんとなく阿藤快の親戚みたいな顔でニコニコしたりしている。刺客キルビルは海外でも話題になり、女性くのいちがニンニンしていて、「男女共同参画」とかはどうなっちゃっているのみたいなふうなツッコミを入れてみたくなったりもするわけだが、それはともかくワイドショー選挙と言われてもしかたないのだろうし、そんな低劣なことはやめて、もっと民度の高い、つまりは政策論だとか、政治理念だとか、争点を明確にしてして、議論をし、投票をするような、ニッポン、民主国家♪をつくりませうというのは、フツーにわからないこともない。
 しかし、まあディベートショーとワイドショーの違いだけなのかもしれないし、ショーじゃないものがあるなんてこともおめでたいのかもしれない。こんなまぜっかえしも、また愚劣と言えば愚劣なのであり、アレなのはわかっているし、それが言いたくてなにかを書いたわけではない。ワイドショーで思い出すのは、オウム事件である。そのとき、国民総ワイドショー状態になり、ばっかじゃないと言う人もいたし、ワイドショーをやめちゃったテレビ局もある。そのときに、「ワイドショーでないと扱えないものがあるし、そこを扱うのがワイドショー」といった言説が注目されたことを、今ふたたび思い出している。ワイドショーにはワイドショーの切れ味はあるし、面白みはあるし、役割はあるんじゃないかというのが、そのときの結論だったと思う。銭湯でパフォーマンスを魅せた都知事候補を巧くとりあげたのはワイドショーだった。問題はそういうのが好きな人は選挙にあまり行かないということなのかもしれないけど。選挙のことを書いているみたいだけど書きたいのはワイドショーのことだ。「ワイドショーでないと扱えないリアリティ」とは何かということだ。